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吉田珈琲出張所
「i don’t know coffee roaster」から雄三通り「吉田珈琲出張所」へ移る
淡いグリーンを基調にしたファサード。白い壁にアートを飾った清潔な店内。コーヒー豆の香り、レコードプレーヤーから流れてくる静かな音楽。どれもが心地よい吉田珈琲出張所。
コロナ禍の緊急事態宣言時に、焙煎豆の卸先はことごとく休業を強いられた。巣ごもり需要による家庭向けの販売は増えたけれど、卸量は桁が変わるほど激減した。手厚い補償のあった飲食店とは異なり、卸売業へのそれはお小遣い程度。「えらいことになりました。卸売だけの限界を感じていたところ、雄三通りのよい物件にめぐり会い、カフェも自分でやるしかないのかな」と、2年前に出店を決断した。
その後、一中通りの焙煎所「i don’t know coffee roaster」を閉めて、オンライン販売をドリップバッグのみにしたのは、「パートナーだと思っている卸先で購入していただきたかったからです」と、店主の吉田博幸さんは話す。
変わらず、焙煎豆を出荷する毎日。吉田さん自身が焙煎所になったから、吉田さんのコーヒーが飲めるここは、アンテナショップのような出張所。南口から歩いて数分。CYCLE BOY谷信雪さんの手がけた自転車がひときわ人目を惹く。
知る人ぞ知るカフェでの修業時代
アメリカ・シアトルの人気カフェの国内1号店が、東京・赤羽橋にあった。 マシンの販売から修理、焙煎や卸売、バリスタのトレーニングなど、シアトル系エスプレッソを幅広く紹介していた。立ち上げ時のスタッフは全員アメリカで研修を受け、デビット・ショマー氏からラテアートまで教わったという。香港や台湾など、アジアからもマニアが訪れる知る人ぞ知る伝説のカフェ。コーヒーを仕事にしたいと考えていた吉田さんは、「ここで全部を学べる」と思い、門を叩いた。
コーヒーを淹れるオペレーションをひとつひとつ身に付けていくと、この行為は何のためにやっているのか、細かな所作が気になって仕方ない。理論として一連の行為が理解できなければ、過剰な工程も足りない動きもわからない。ただの作業に終わってしまう。そこで、疑問に感じたことを社員に質問するのだが、マニュアルを重んじる先輩たちから納得できる回答は得られなかった。
すべては数字で説明できる、コーヒーは理科
探求心に火がついた。営業時間後の店内にだれも居ないことを確認すると、近所のコンビニで牛乳を買いあさり、店に戻って実験を繰り返した。加熱時間や温度を変えたら、どんな違いになるのかを克明に記録していった。スタッフが出勤してくるまでの朝の時間も、実験に費やした。関連書を読んで調べつくした。すべてのオペレーションをシステム化した。
エスプレッソマシンの構造を知りたくて分解もした。道具を知ることでより深くエスプレッソを理解できたが、設計図通りに組み立てるのは、分解するよりもはるかにむずかしかった。分解したマシンは、1台や2台ではない。それぞれのマシンを構造まで熟知したものだから、修理も任されるようになった。販売先のマシンが故障するたびに地方へ出向いた。アルバイトだったのに職制はどんどん上がり、広尾店では責任者になっていた。それはそうだろう。
夢中でやっていたから、苦ではなかった。3年後にカフェを辞め、茅ヶ崎に引っ越し、一中通りで焙煎所をはじめた。
夢はゴースト・ロースター
吉田さんの元には、豆を卸してほしい、カフェをやりたいという問い合わせが後を絶たない。その時は必ず、①ドリッパーのなかで粉とお湯になにが起きているのかを理論として伝え、②理論の通りにドリップできるまで自宅での練習を課して、③できたと思ったら再び来店してもらい次のステップへ、という流れにしている。
なぜなら、量に勝る質はない、回数を重ねることでしか見えてこないものがある、と信じているからだ。宿題を何千回と繰り返してきた人は、一目見ればわかる。本気の人たちだけが、やがてはカフェを開き、今も継続させている。
現在はトレーニングを止めていて、以前の教え子である卸先のカフェを紹介している。
「自分は裏方。卸業というスタイルが性に合っている。ぼくの名前なんてどうでもいい」と語る。卸先のなかには、吉田さんが焙煎した豆だと表記していない店もあるという。それがいい。そうでありたい。謙遜ではなく、ロースターとしての矜持。ゴーストになる機会を常にうかがっている吉田さんの淹れたコーヒーが飲めるのは、今のうちかもしれない。
豆にまつわる豆知識、吉田さんの考え
一般的にコーヒー豆は、焙煎の2〜3日後がもっとも美味しいといわれている。吉田さんは、「焙煎豆はさまざまな要素によって経時変化します。その変化を風味として楽しめるのは焙煎から10日間くらい」と説く。コーヒーは煎りたて、挽きたて、淹れたての3たてが絶対の基本。
ハンドドリップの透過法の場合、コーヒー豆の香り成分を最大限に取り出すことがドリップの抽出技術であり、そのために焙煎した豆から発生する炭酸ガスの力を借りている。豆に香り成分が残っていても、先に炭酸ガスが揮発してなくなってしまう。言い換えたら、ガスのない豆から香りは立たない。完璧に保存できたとしても、1週間で約48%の炭酸ガスが揮発してしまう。つまり、10日経過した豆から透過法のハンドドリップで香りを取り出すのは、極めてむずかしい。
冷蔵や冷凍で豆の劣化を遅らせることはできるのだが、常温に戻す温度差で生じる結露によって、扱いはさらにむずかしくなる。「常温の涼しい場所で保管して、10日で飲みきって、面倒ですが小まめに買いに来てほしいです」と、吉田さんはおすすめしている。
カメラ:位田明生 / ライター:小島秀人(株式会社カノア)