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チガサキゴトよ、チーガ

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生誕120年記念企画 小津安二郎の痕跡をたどる〈前編〉

是枝裕和監督をはじめ、多くの映画人や文化人から愛される茅ヶ崎館。しかし、この海辺の日本旅館は、そうした人たちのサイン色紙や写真を飾らない。ただ一枚、小津安二郎監督の写真を除いては。

そんな小津安二郎と茅ヶ崎館の特別な関係を、五代目館主の森浩章さんに聞いた。

一枚の写真

 険しい表情、厳しいイメージが一般的な小津安二郎監督にしては珍しく、やわらかな視線をこちらへ向けているその写真は、浩章さんの父である先代の勝行が撮ったものだ。『早春』(1956年公開)の茅ヶ崎ロケが現在の茅ヶ崎公園野球場のあたりで行われていた日。いつものように勝行は撮影現場まで付いて行き、休憩時間に入ると、岸惠子や池部良を自前のカメラで撮っていた。すると、その様子を見ていた小津から「かっちゃん、いいよ」と声をかけられて撮った一枚だった。これが茅ヶ崎館に残っている小津の、そして飾られている唯一の写真だ。

 この『早春』の撮影後に小津は、脚本作りの仕事場を野田高梧(小津とコンビを組んで数々の名作を生んだ脚本家)の兄が持っていた別荘のある長野県の蓼科へ移した。山の景色がすばらしく日本酒もうまい。とにかく環境がよかったのだろう。蓼科で脚本を書きはじめたら、ずっと蓼科になったのだ。大船と茅ヶ崎のほどよかった距離が東海道線の電車化により縮まって、松竹から脚本や撮影の催促がうるさくなった。そんなタイミングも重なってしまったのだろう。毎年秋になると「かっちゃん、明日から行くよ」とかかってきた電話が再び鳴ることはなかった。毎年々々、待っていても来ない。それはものすごい喪失感だったと浩章さんは聞いている。勝行が25才の時だった。

 勝行にとっての小津は、「あこがれの対象、理想の男性であり、はじめて出会う父性だったのだと思います」と、意外なことを口にする浩章さん。一年のうちの数カ月間を、長いときには半年以上も滞在する小津がはじめて茅ヶ崎館にやって来たのは勝行が7歳のとき、昭和12年(1937年)4月27日の火曜日だったと小津の日記に書いてある。

 気に入った後輩をいろいろな飲食店に連れて行き面倒見のよかった小津は、子どもにも優しかったそうだ。遺作『秋刀魚の味』(1962年)で笠智衆の演じる父親の次男役だった三上真一郎から、50代になった小津や野田が20代のサラリーマンたちとたのしそうに鎌倉の山を登ってハイキングへ出かけていた、と聞いたことがあるという。それは、おそらく目下の者を可愛がる純粋な気持ちと、若者たちの言動をじっくりと観察して次の作品作りにいかしていた側面もあったのではないか、と浩章さんは想像する。映画のネタ探しでもあったのではないでしょうかと。

 晩年の小津は、佐田啓二の自宅に自分の部屋(小津部屋)までこしらえて住み着いていたこともあった。小津は生涯家族を持たなかったけれども、いろんな家族や家族的なところに潜り込んでは、そこで生活をして人々を観察していたという。そんなことが可能だったのだから、人たらしでもあったのだろう。

小津安二郎と四代目

 茅ヶ崎館の歴史にも触れてみたい。創業者のことを質問すると浩章さんは、「信次郎(しんじろう)の経歴もすごくおもしろいものですから、いつか本にしたい」と展望する。名古屋の稲葉宿という宿場町、現在の稲沢市の出身の信次郎。商人一揆のような打ちこわしが起きて、それで実家を飛び出して船乗りになったのだという。九州、山口、函館、横浜で働き、函館では渋沢栄一と会社を作り、岩崎弥太郎の三菱汽船(現日本郵船)に勤めて機関長になった。給料はよかった。戊辰戦争と日清戦争へ行っていて、船乗りを早期退職すると茅ヶ崎館をはじめるのだが、開業後には日露戦争へも行っている。

 信次郎が茅ヶ崎館を買ったのは明治32年(1899年)。平塚の地主が明治20年に作った海水浴客をあてにした旅館は、時代が早すぎた。茅ヶ崎には汽車の停車場もなかったし、電話線も引かれていなかったので、旅館事業としては成功しなかった。信次郎は売りに出ていた建物を居ぬきで購入すると、近所に南湖院(後に東洋一のサナトリウムと呼ばれる)が開業すると聞き、名前を茅ヶ崎館とあらためてリニューアルした。電話を引くと、番号は茅ヶ崎郵便局が1番、南湖院が2番、茅ヶ崎館は3番だった。しばらくは5番までしか電話番号はなかった。

 信次郎はアイディアマンで、開業や一周年の時に、寄席の噺家や狂言師を呼びよせてイベントを開いていた。「なるほどなぁと思い、今では自分もさまざまなイベントを開催しています。商売上手で、何をすればいいのかをわかっていた人だった」という。ある時は、庭木を探しに堤の山へ出かけて行って、浄見寺で大岡越前の墓を見つけている。当時の実業家であり政治家の山宮氏と、草むらに埋もれてぼろぼろだったお墓をきれいにして、供養とお祭りをはじめた。それが現在も毎年春に行われている大岡越前祭につながっている。

 大正12年(1923年)におきた関東大震災は、茅ヶ崎館にも甚大な被害を与えた。海に面した広間と西側の二階家が倒壊。信次郎は建て替えを決意して、経営を息子の信行に譲った。震災後の混乱期、二代目・信行の元に浩章さんの祖母にあたるつねが嫁入りした。しかし、信行は昭和6年(1931年)に初代よりも先に33歳の若さで急死。落胆した信次郎は2年後の昭和8年に亡くなった。夫に先立たれ、初代と大女将も亡くしてとり残されたつねは孤軍奮闘、一人で茅ヶ崎館を切り盛りして守っていた。勝行がまだ1歳半とか2歳の頃だった。

 震災被害で建て替えた際の借金を返しながら、経営と子育てをがんばっていたら、小津監督など松竹大船撮影所の映画人たちが宿泊してくれるようになり、それが安定した収入源になっていった。借金取りがしょっちゅう返済の催促に来ていて、つねは勝行に「居ないと言って返しなさい」と頼むよう困窮していた時代でもあった。やがて、つねは親戚筋の亘と再婚するのだが、勝行と三代目・亘の間には確執があった。新しい父と勝行はうまくいかなかった。そこへ小津監督が現れたものだから、勝行はあこがれの男性像を小津に見たのだろう。昭和12年に2人はもう一緒に風呂に入っている。

 そんな経験はそれまでの勝行にはなかったのだという。「こんど中国に行くから(日中戦争がはじまり応召されたため)、かっちゃんお土産は何がいい」「切手がいい」と、まるで親子のような会話をする間柄になっていった。

裏門から海まで続く砂浜(当時)が小津の散歩道だった

 昭和14年に招集は解除され、昭和16年には『戸田家の兄妹』(1941年)のラストシーンを茅ヶ崎の海岸でロケーション、『父ありき』(1942年)からは脚本作りの仕事場を茅ヶ崎館に移した。小津から切手を手渡されることはなかったが、松竹大船撮影所の編集室でラッシュ(編集前のフィルム)を見せてもらい、ロケにも同行させてもらった。行く先々で当時の銀幕スターたちに出会い、映画制作の裏側を見ることができた特別感は勝行の心に刻まれていったのだろう。

 「小津が父に接したように、父はぼくに接していたように思います。父親というよりも先生のように接している部分があって、父には小津のそういった態度が沁みついていて、それをぼくにやっていた。だから、自然と映画好きになりますよね」と懐かしむ。

 勝行の記憶に刷り込まれていた小津との思い出話を、浩章さんは食事やドライブに出かける度に聞いていた。小津のことになるとうれしそうにしゃべるので、それがすごく印象に残っているのだという。

 そんな頃、出版されたばかりの書籍『小津安二郎と茅ヶ崎館』を読んだ。さらに小津安二郎の関連書を読みあさり、これはちゃんとしないと大変なことになるぞと思い立ち、映画に関することをいろいろと勉強しはじめた。自分なりに紐解くと、小津と茅ヶ崎館にはちゃんとしたストーリーと理由があって、そこはしっかりと紹介していかなければならないと決意した。25年くらい前のことだ。

二番とおゆうさん

小津も愛用した二番に備え付けのやかんと火鉢

 

 宿の奥、中二階の角の庭に面した二番の部屋は、茅ヶ崎館のほかの部屋よりも天井や梁が黒光りしている。それは70年ほど前に、二番を定宿にしていた小津がこの部屋で自炊をはじめたからだ。明治期からのほったらかし宿とはいえ部屋での自炊を認めるなんて、なんとおおらか時代、おおらかな旅館だったことか。「ご遠慮ください」と小津には言えなかったのだろう。

 長逗留ゆえに旅館の食事の他に小津は、市内の石坂金物店で調理道具を買い揃え、食材は女中のおゆうさんに頼んで仕入れてもらい自分で作りはじめた。茅ヶ崎にない食材は東京まで買い出しに行ってもらっていた。時には東京へ届け物まで運んでいたおゆうさん。旅館の女中というよりも、まるで優秀な秘書のようだ。旅館のサービスをはるかに超えているが、「とにかく先生(小津)の役に立ちたい。先生の役に立つことが自分の幸せ」と言っていたおゆうさん。大正3年の茅ヶ崎館の写真におゆうさんが映っているから、女将のつねよりも古株だったことがわかる。この宿は自分が仕切っているという自負もあったのだろう。

 おゆうさんは住み込みではなくて、夜遅くに南湖の自宅へ帰って、必ず翌朝一番に出勤した。じつは、おゆうさんとは茅ヶ崎館での通称みたいなもので、本名は檜和田(ひわた)イヨという。しかし、中二階の一番、二番、三番の宿泊客のだれもが、つまり松竹の映画人たちは、おゆうさんの名前を「ゆう」だと思い込んでいた。とても面倒見のよかったおゆうさんのことは、小津だけでなく、一番を定宿にしていて茅ヶ崎館の主と呼ばれた脚本家の齋藤良輔や、新藤兼人監督もよく憶えていた。この中二階の三部屋は、ほかの女中には決して触らせなかった。「松竹大船撮影所の皆さんは自分がお世話をするのだ」という、責任感の強い気質もあったのだ。

 おゆうさんはいつも清潔な白足袋を履いていて、そんな身なりにまで気を遣うおゆうさんのことを小津も気に入っていたのだろう。

 現在、札幌市にある北海道立文学館で特別展示(2023年8月20日まで)されている「生誕120年・没後60年 小津安二郎 〜世界が愛した映像詩人〜」の発起人である国文学者の中澤千磨夫氏が、昭和40年(1965年)に亡くなった檜和田イヨの南湖にあったお墓を見つけてくれたそうだ。

 小津は新人時代、若手の頃から松竹の撮影所で料理をしていたという。あの有名な「カレーすき焼き」も二番で大切な客人に振舞っていた。とにかく食べることが大好きだった小津。二番の天井を見上げる浩章さんは、「老舗のうなぎ屋さんのよう(に黒光りしている)でしょう」と笑った。

〈次号の後編に続く〉

参考文献:石坂昌三著『小津安二郎と茅ヶ崎館』(新潮社・1995年刊)

writer :小島秀人( 株式会社カノア)/ 場所:茅ヶ崎館


INFORMATION

国指定 登録有形文化財「茅ヶ崎館」

住所 茅ヶ崎市中海岸3-8-5
駐車場 P:あり
TEL 0467-82-2003
URL 茅ヶ崎館HP

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