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チガサキゴトよ、チーガ

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偉大なる現役ミュージシャン、 ブレッド&バター岩沢幸矢さんインタビュー

「あのままホテルマンになっていたら今頃ニュージャージーあたりに別荘を持っているかもしれない(笑)でもディランと同じベッドに寝ちゃったからね」

今回、川廷昌弘さんが対談を切望したのは、岩沢幸矢さんです。1969年にフォークデュオ「Bread & Butter」としてデビューし、ファンを魅了し続ける「さっちん」さん。次々に国内外の名だたるミュージシャンとの知られざるエピソードも明かされた濃密な対談の中で感じられたのは、あらゆる境界線を軽やかに越えていく、自然体な生き方。その礎は、茅ヶ崎で育ち、少年時代から培ったものにありました。 

右:岩沢幸矢(いわさわ・さつや)
1969年、弟・岩沢二弓(いわさわ・ふゆみ)とともに兄弟フォークデュオとしてデビュー。父は映画監督の岩沢庸徳(いわさわ・つねのり)。現在までにアルバム47枚(オリジナル・ベスト盤)をリリース。スティーヴィー・ワンダー、井上陽水、松任谷由実など国内外の名だたるミュージシャンとの幅広い交流を重ね、日本の音楽シーンの基礎を築いてきた。代表作は『あの頃のまま』『ホテルパシフィック』『湘南ガール』『ピンクシャドウ』など。

左:川廷昌弘(かわてい・まさひろ)
1986年博報堂に入社し、テレビ番組「情熱大陸」の立ち上げ、環境省「チーム・マイナス6%(2005年)」等のプロデュース、国連総会「SDGsサミット(2019年)」サイドイベントでのスピーチで活躍する一方、日本写真家協会会員として写真集も出版。2022年、筑波大学大学院後期博士課程修了。2023年6月末で博報堂を定年退職し、写真家としての活動に主軸を置くことを宣言。

山雄三さんの家からエレキとドラムの音
部活終わりに尾崎紀世彦さんとウクレレ

今日はお会いできて光栄です。僕は今年定年退職を迎えてこれから自分の足で立っていくと思ったときに、さっちんさんにお話を聞きたいと思いました。ブレバタ(Bread & Butterの通称)として長年活動されてきて生涯現役であり続けるさっちんさんとお話しすることで、茅ヶ崎らしい生き方を探っていけたらと思います。

幸:そうですか、ありがとうございます。

先日の※80歳のバースディライブもとっても素敵でした。声がまったく変わらずみずみずしくて、ハイトーンもしっかり出ていて。どうやって声帯の若さを維持しているんだろうって不思議に思うくらいでした。

幸:お酒飲んだら大丈夫ですよ(笑)。

えっ、飲んだら逆に声がガラガラになるんじゃないですか?

幸:そういう人もいますが、僕は違うようです(笑)。

そもそも、あの特徴的な歌い方はどうやってマスターされたんですか?

幸:何もしていないんです。音楽はほとんど勉強していないから。

勉強してないでこれだけ生涯現役で続けられているのですね。もしかしたら茅ヶ崎で少年時代に培ったものがあって、それが強さみたいなものにつながっているのかなと思います。音楽を始めたきっかけはなんだったのでしょう?

幸:きっかけは加山(雄三)さんだと思います。僕の家は一中(茅ヶ崎市立第一中学校)の近くで加山さんの家も近かったんです。家の前を通ると塀の中からエレキとドラムの音が聞こえてきて。それで加山さんが洋楽が好きだとわかって、海の向こうに憧れるようになりました。後に※パシフィックホテルが建つ国道沿いの丘に、木造の三角の塔が建っていたんです。物見櫓(ものみやぐら)だったのかなぁ。子どもたちは「三角塔」と呼んでいて、僕もよく登って遊んでいました。広い水平線が見えて、「いつか僕も海の向こうのアメリカへ行くぞ」と思っていてね。当時の僕には、海外といえばアメリカだったんです。

三角塔ですか。そんなエピソードも歌にして我々の世代にも伝えてほしいです。海の向こうという見えないものを想像するということのワクワクも伝わってきます。

幸:あとは尾崎(紀世彦)さんですね。中学の水泳部の1つ上の先輩で、僕の家にウクレレとかボンゴを持ってきて、水泳が終わると一緒に演っていたんです。水泳よりも音楽が好きだったんですね。

素敵な少年時代ですね。

幸:小学生のときはとにかく遊び場は海しかなかったから、友だちと海でキャンプしていましたね。

小学生で子どもだけで?

幸:ほとんど親はいなくて、海で泳ぐのも自分で覚えるしかなかったんです。東海岸の浜はドン深(急に地形が深くなっていること)だったから、すぐ背の高さの深さになっちゃうんですが、それも自分で覚えるしかなかった。

野生的でローカルな遊び方ですね。

幸:家は海から徒歩7分ほどでしたが、庭も全部砂でした。だから、とにかくずっと裸足で暮らしていたんです。

パシフィックホテルでアルバイト。
ホテルマンを目指しニューヨークへ

茅ヶ崎で裸足で駆け抜ける少年時代を送られて、その後ミュージシャンを目指すに至ったのはなぜだったのですか?

幸:ボブ・ディランですね。学生時代に、大人の社交場としての憧れもあってパシフィックホテルでアルバイトをしていたんです。その経験からホテルマンを目指すようになって渡米して、3ヶ月ほどニューヨークの※フォークロア・センターというところに寝泊まりしていたんですが、そこを出るときに「サチが寝ていたベッドは、以前ディランが毎晩寝泊まりしていたんだよ」と聞かされて。

それはすごい!

幸:それでもう、驚いちゃって。やっぱり自分は音楽が好きだから、好きなことをして生きていこうと。実はそのとき、ニューヨークのヒルトンホテルへの就職も決まっていたんです。あのままホテルマンになっていたら、今頃ニュージャージーあたりに別荘を持っているかもしれない(笑)。でもディランと同じベッドに寝ちゃったからね。

運命的な人生の変わり目ですね。

幸:ええ、親父に「好きなことをして生きるのが人間の義務だ」って言われていたから。

いいお父さんですね!それで帰国されたんでしょうか?

幸:フォークロア・センターで名だたるミュージシャンと知り合って、少し音楽をやっていたんですが、やはりレベルが違って無理だなと。

そうでしょうか。でもその後日本で弟の二弓さんとともに「Bread & Butter」としてデビューされて、加山雄三さん、サザンオールスターズとともに「湘南サウンド」御三家とも呼ばれるほど活躍されて。ホテルマンではなくミュージシャンの道を選ばれたからみんなのさっちんさんになってくれて、ファンとしては嬉しいです。

「カフェ・ブレッド&バター」
伝説のカフェ開業秘話

デビュー後、一時期は茅ヶ崎で「※カフェ・ブレッド&バター」も開業されていたんですよね。

幸:70年代に活動を休止していたとき、パシフィックパーク茅ヶ崎のオーナー一家の自宅のガレージで始めました。浅草の材木屋さんの娘が僕の友人で、東京から木材を運んできたりして手作りしてね。ガレージにピアノを入れたら、たまたま佳孝(南佳孝)が通りかかって、一曲演ってもらったらそれが良くて、ライブハウスにしようって。

すごいエピソードですね。

スティーヴィー・ワンダーとの
知られざるエピソード

幸:それで東京に行ってブッキングもして、いろいろな人が歌いに来るようになりました。その頃僕らもちょこちょこ歌い始めたらレコード会社の人が来て、それがきっかけで再デビューしたんです。それが『あの頃のまま』(1979年)です。

『あの頃のまま』も名曲ですよね。

幸:でもその前にスティーヴィー・ワンダーがくれた『特別な気持ちで(I Just Called To Say I Love You) 』という曲があったんです。もともと僕がビートルズの次くらいに好きなアーティストで、スティーヴィーのエンジニアと僕のプロダクションの社長と仲が良かったこともあって、僕らのテープを送ったら気に入ってくれて一緒にレコーディングしようと。それが、1973年のロンドンでのレコーディングで作った『IMAGES』というアルバムで、これが最初の出会いです。その後日本に来たときはディスコに行ったり飲みに行ったり。

そんな親交があったんですね。『特別な気持ちで』といえば、スティーヴィー本人が歌って世界的ヒットとなった曲ですよね。

幸:そうなんです。『I Just Called To Say I Love You』は、実はスティーヴィーが僕のために書いてくれた曲でした。日本で細野君(細野晴臣)のアレンジ、ユーミン(松任谷由美)の日本語詞で『特別な気持ちで』としてレコーディングをしていたんですけど、途中からスティーヴィー本人が歌いたい、映画のテーマソングになりそうだから、ということで僕らの発売は延期になっったんです。ご存知の通り、曲はアカデミー賞、グラミー賞を取りました。でも、その後、この曲が盗作だとスティーヴィーが訴えられてしまいました。その時、僕がスティーヴィーの証人になって、彼はめでたく無実を勝ち取ることができました。それで、そのお礼としてまた一曲、「REMEMBER MY LOVE」(1986年)を贈ってくれたんです。

それは知りませんでした、驚きです。でもそういうことも含めて、ひゅっと境界線を越える身軽さをお持ちでいらっしゃいますね。

幸:それは割と得意かもしれませんね。


裸足で歩けるきれいな海を子どもたちへ
ベアフットコンサートのこと。

さっちんさんの活動で是非お聞きしたいのは、※ベアフットコンサートです。僕がさっちんさんと初めてお会いしたのも、ベアフットコンサートを担当していた環境省の方の紹介でした。そのとき「ビーチを守らなきゃ」って熱心にお話されていましたが、同時に「肩肘張ってやるよりはビーチで音楽を聴きながら」っておっしゃっていて素敵だなと思いました。いつ頃始められたのでしょうか?

幸:1981年です。70年代中頃からとにかく海がすごく汚れていたんですよ。冷蔵庫とかタイヤとか、大きいゴミもいっぱい落ちていて、波乗りなんてやれる状態じゃないのにみんなその上を歩いていて。娘が生まれたときに、このままじゃダメだ、裸足で歩ける安全できれいな海を子どもたちに残さなきゃって思ったことがきっかけでした。

ご自身の体験から自然に発想されたんですね。

幸:はい。それでまず、辻堂海岸で開催しました。ムッシュかまやつ、鳥山雄司、美久月千春といったミュージシャンとゴミ袋を持って海岸に行ってビーチクリーンをした後、無料でコンサートをやったんです。「入場料はみんなの拾ったゴミと汗」って言ってね。その後全国に広がって、今はそれぞれの場所でそれぞれの人が開催しています。

素敵ですね。茅ヶ崎ではいつから開催されたんでしょうか?

幸:1991年からです。茅ヶ崎では「ベアフットコンサート」から「ほのぼのビーチ茅ヶ崎」という名前になって、毎年ビーチクリーンとコンサートをやっていますね。

「ベアフット」の心を引き継いで、神奈川には全国で唯一の海岸美化財団もできて、ビーチクリーンをする人もずいぶん増えました。とても自然体で、「ベアフット」は湘南文化の一つのアウトプットだと感じています。やはり子どもの頃に裸足でビーチを歩いて育まれた感性が大事なのかなと思います。大人になってもすごく自由に「好きなことをして生きるのが人間の義務」というお父様の言葉をそのまま体現されていますね。

幸:でも好きなことをして生きるには、責任も伴ってきますね。僕はそう思っていないタイプですが、妻が責任感の強いタイプでよくそう言われます。

なるほど、「責任」という言葉が合うかどうかわかりませんが、僕も湘南の音楽を好きになって移住してきて、それが自分の生活の豊かさを支えてくれています。人の人生に寄り添うような、ミュージシャンとしての責任かもしれませんね。これからはどのような活動をされていきますか?

幸:わからないな。でも家族がみんなミュージシャンだから、一緒にやろうかなと思っています。

それは楽しみです。さっちんさんのお話を聞いて、僕も裸足でビーチを毎日歩いていれば、元気な80歳になれるのかなと思いました。茅ヶ崎で「ベアフット」な生活を続けていきたいと思います。

80歳のバースディライブ 2023年7月7日、神田明神ホールで開催された「岩沢幸矢・Birthday Concert Happy 80th!」川廷さんの着ているTシャツはこの日ライブ会場でゲットしたもの。ちなみにイラストは幸矢さんの父で映画監督の岩沢庸徳さん。

フォークロア・センターニューヨーク・グリニッジヴィレッジにある、フォーク・シーンの中心となった店。1957年のオープンから16年間、レコード、歌集、書籍、楽器の販売を行っていた。かつて常連だったボブ・ディランはここを「アメリカのフォーク・ミュージックの拠点」と呼んだという。

パシフィックホテル茅ヶ崎1965〜1988年営業のリゾートホテル。1965年、東海岸南6丁目の国道134号線沿いに、俳優の上原謙、加山雄三、小桜葉子(本名:岩倉具子)の弟・岩倉具憲らが共同オーナーとなって建設・開業。当時、真っ白い円柱形をした斬新なデザインの建物が話題となり、ドライブイン、ボーリング場、プール、ビリヤードなど様々な娯楽施設が併設された先進的な海辺の高級リゾートホテルとして注目を浴びた。

カフェ・ブレッド&バター1970年台初頭、Bread & Butterが茅ヶ崎市東海岸南に開業したミュージック・カフェ。かまやつひろし、荒井(松任谷)由実、南佳孝など、日本を代表するアーティストたちが昼夜問わずセッションを繰り広げ、新しい音楽が生まれていた。

ベアフットコンサート真夏には20万人の人出で賑わい、70年代半ばから大量のゴミが溢れるようになった湘南の海岸で、岩沢幸矢がビーチクリーンを始めたことがきっかけとなり、1981年5月、辻堂海岸で「裸足で歩けるきれいな海を子どもたちへ」をテーマに初のベアフットコンサートを開催。その後全国に広がり、2007年にはNPO法人ベアフット協会(会長・岩沢幸矢)を設立。名誉会長は加山雄三。理事にはムッシュかまやつ、南こうせつ、小室等らが名を連ねている。

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かわていさん

SDGsは、2030年までに持続可能な社会を実現するために世界が合意した国際的な目標。2015年9月の国連総会で採択された。「貧困の撲滅」から「パートナーシップ」まで、社会、環境、経済の3つの側面が含まれた17の目標で構成されている。SDGs自体を目的化せず、コミュニケーションツールとして使いこなすことがポイント。

writer:池田美砂子
フリーランスライター・エディター。茅ヶ崎市在住、2児の母。
大学卒業後、SE、気象予報士など会社員として働く中でウェブマガジン「greenz.jp」と出会い、副業ライターに。2010年よりフリーランスライターとして、Webや雑誌などメディアを中心に、「ソーシャルデザイン」をテーマにした取材・執筆活動を開始。聞くこと、書くことを通して、自分が心地よいと感じる仕事と暮らしのかたちを模索し、生き方をシフトしている。


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