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岡本洋平の現在地
余命1年から生還したロックミュージシャンが辿り着いた音楽の灯台
これまでずっと第一線で音楽を作り続けてきた岡本洋平がなぜ今、スタジオ運営をするに至ったのか?そこには地元への深い愛情と、ステージ4の癌になり、音楽への向き合い方が変わったことがあったという。
ーー岡本くんとはライブハウスで出会って、ヘルマン(Hermann H.&The Pacemakers)中心に定期的に取材をしたり撮影をしたりしてきたけど、まさかスタジオを作るようになるとは思いませんでした。
岡本 そうっすね。俺も不思議です(笑)。
ーーヘルマンは慶応大学のサークル仲間で組んだバンドですがデビューまで早かったですよね?
岡本 早かったかもね。でも、結成当初はボーカルは女の子だったし、デビューしようなんて気持ちはなく、仲間たちとただただ盛り上がって演奏を楽しんでただけでしたけどね。それがいつの間にかライブハウスに出るようになって、お客さんも増えて、事務所やレコード会社から声がかかってデビューしたって感じで、あんまり深くは考えてなかったかも。
ーーバンプ・オブ・チキンや氣志團、POLYSICSら同世代のロックバンドとの対バンでもヘルマンはかなり目立っていましたよ。かなり多忙な日々だったのにも関わらず、岡本くんは茅ヶ崎から東京へ毎日のように通っていたんですよね?
岡本 通えちゃうからね。東京に引っ越すことも考えたけど、結局、ずっと茅ヶ崎に住んでますね。地元なんでラクですよね。
ーー今回、NOVZOを作ることでスタジオオーナーという肩書が増えるわけですが、ミュージシャン岡本洋平としてはそこにどんな決意があったのですか?
岡本 37歳のときにステージ4の「下咽頭癌」で余命が1年だと宣告されたんです。子供が4歳のときでした。それはかなりショックでしたけど……でも俺は生きることができた……とはいっても、すぐに音楽をやることはできなくて、歌も歌えないし、ステージに立つこともできないって状況で。
ーー癌を公表したときは祈るしかない気持ちでした。
岡本 それまでの人生は、自分が思っていることを表現すれば、周囲からは「オカモトの音だ」って評価されて生きてきたんですよね。それが癌になったことで一切できなくなってしまった。で、もう生きられないかもしれないと感じたときに、自分がずっと愛してきた音楽を表現するって喜びをもっといろんな人に伝えたい、知って欲しいと思ったんです。
ーーミュージシャンとしての存在意義が問われていた?
岡本 そう。自分では表現できないけど、それまで自分が音楽で授かったことを教えること、伝えることならできるんじゃないかと。それでSNSで音楽レッスンの募集をかけたんです。それまで自分が人に教えるとか考えたこともなかったけど、それしかできなかったからまずはやってみようって。
ーー新しい音楽との関わり方を見つけたんですね。
岡本 音楽が好きで音楽を愛している人はたくさんいる。そういう人たちの思いを受け止めていくうちに自分もどんどん学んでいって、まあ、先生って言い方は嫌いなんだけど、教えることをやっていくうちに、ステージ上だけじゃなくても音楽を伝えることができるんだなってことが何年かやっていくうちにわかってきたんです。
ーー「教えること」は大きな出来事だったわけですね。
岡本 そうですね。今は治療から7年以上経ち再発転移もなく完治して体力も戻り、バンドも再開して、ステージで演奏ができていますけど、その流れがあったから今もレッスンは続けています。
ーーアーティスト活動にもよい反映があったわけですね。
岡本 今回のスタジオの話を貰ったときに、音楽が好きな人、音楽で何かを表現する人たちが集まれる場所が茅ヶ崎にあったらいいんじゃないかと思ったんです。今までは自分勝手に生きてきたけど、俺にも何か与えることができるのかなと。アーティストとは違うベクトルで、音楽の楽しさを伝えられる場所が作れたらという思いでNOVZOを作るに至ったっていう感じです。
ーーアーティスト岡本洋平としての今後は?
岡本 NOVZOが軌道に乗り、新しい空気が生まれるまでは自分のことは少し置いておこうと思ってます。両方は無理なので。バンドにしろ、ソロにしろ、実はコロナ禍前にレコーディング直前までいっていたので、こっちが落ち着いたらまた動きたいとは思っています。両方とも本気でやらないとできないので、今はNOVZOに集中します。
ライター・高畠が選ぶHermann H.&The Pacemakersのこの1曲
『アクション』 詞・作曲/岡本洋平
絶対、脱げないスニーカーを履いて、僕らは未来を必ずキャッチする。アクションしつづけることで未来は開くというロックアンセム。ヘルマンの代表曲でもあり、歌詞はそのまま岡本洋平の人生にも当てはまる。聞いてみてください。