知らなかった茅ヶ崎をもっと知り、もっと好きになり、
もっと楽しめる!茅ヶ崎を知り尽くす情報サイト

チガサキゴトよ、チーガ

  • facebook
  • instagram
  • twitter

チガサキゴトよ、チーガ

OTHER

NEW

娘が手元に残した三橋兄弟治のハトヤバラ

永峯千尋

永峯千尋さんは茅ヶ崎の画家、三橋兄弟治(みつはし・いとじ)さんの次女。編集部は以前、千尋さんのお宅に招いていただいたことがあるのですが、ご自宅のリビングには画家の娘らしいしつらえが施されていました。なんと壁の一面だけがウッディだったのです。ご自宅を建てる際に兄弟治さんの絵画を飾るための壁をつくったのだと教えてもらってから、いつか娘から見た父・兄弟治さんへの想いを聞いてみたいと思っていました。

「兄弟治さんは花の絵をお描きになられていませんか」と尋ねると、「花の絵は少ないのですが今、応接間に掛かっていますよ」と永峯さん。赤い服の幼い永峯さんを描いた油彩があったその壁には、水彩の白いハトヤバラが咲いていました。

永峯さんのご自宅のリビング。父、三橋兄弟治の絵を飾るために壁が一面だけ木の仕様になっている

南湖院の庭に咲いていた思い出の花「ハトヤバラ」

 普通のバラとはちょっと違う、大輪一重の花を咲かせるハトヤバラ。父である三橋兄弟治氏の思い出を語る上で、この白いハトヤバラは欠かせないと娘の永峯千尋さんは言います。

 「父はこのハトヤバラが大好きだったんです。何しろ母との大切な思い出の花ですからね。ハトヤバラは、二人が出会った南湖院の庭にたくさん咲いていたんだそうです。生垣に這うように、それはもうたくさん。もちろん、母もこのハトヤバラが大好きでした。だから父の中では、母とハトヤバラが一体だったんでしょうね。この花に母の面影を重ねているの。本当にロマンチックな人でしょう(笑)」

 南湖院(現・太陽の郷)は、かつて東洋一と言われたサナトリウム(結核療養施設)。母の敏子さんは、当時ここの医師として勤務していた叔母の土岐美也子の紹介で、看護師として勤めていました。

 南湖院の開設者である医師の高田畊安氏が熱心なクリスチャンであったことから、ここではキリスト教関連の行事が数多く催されたと言いますが、敏子さんも、そして画家で当時学校の教師をしていた兄弟治さんも敬虔なクリスチャンだったため、この南湖院を訪れ運命の出会いを果たすことになったのです。ハトヤバラはそんな二人の愛の育みを、ひっそり見守っていたのかもしれません。

突然の母の死。8歳で父の深い悲しみを目の当たりに

 兄弟治さんは横浜の成美学園で教師を勤めたのち、茅ヶ崎に移り住み、やがて鶴嶺中学校の美術教師になり、教鞭をとる傍ら画家として創作活動に励みます。

 戦後のもののない時代で、食べるに困ることもあったと言いますが、兄弟治さんの影響で敏子さんも絵を始め、夫婦仲良く海岸で絵画制作に勤しむことも多かったのだそう。

 「茅ヶ崎の海岸に出て、二人で肩を並べて絵を描くんですよ。一緒に連れて行った姉と私、弟や妹たちをその辺で遊ばせながらね。母は絵だけでなく詩も書く人で、クリエイティブなセンスのあるところが父とあったのでしょう。画用紙も満足に買えないし、ご飯の代わりにお芋を食べるみたいな生活でしたけど、夫婦仲も家族仲もよくて、本当に幸せでしたよ」(永峯さん)

 それだけに、敏子さんが急逝した際の兄弟治さんの悲しみは、言語に絶するものがあったと永峯さんは振り返ります。

「母を亡くした時、私は8歳でしたけど、子供心に本当にいたたまれない気持ちになりました。お葬式の後、家族が誰も見ていないところで、一人布団に突っ伏して号泣していたんです。私はたまたまそれを見てしまったのですが、父の深い悲しみが伝わってきて、自分が頑張って父を支えなければ、なんて思ったものでした」

 ハトヤバラの絵が描かれたのは、敏子さんを亡くした直後のこと。言われてみれば、真っ黒な花瓶や陰鬱さを帯びた葉の色、それとは対照的に浮かび上がる花の白。いくつも咲き誇るハトヤバラからは、どこか力強さや希望も感じられます。喪失の悲しみを超えて新たな境地へ、兄弟治さんはこの絵にそんな創作への意欲も潜ませていたかもしれません。

美術クラブにペンクラブ。南湖の自宅アトリエは芸術サロン

 妻を亡くしてなお創作への情熱を燃やす兄弟治さん。その創作魂は、同じ志を持つ仲間たちを南湖にあった自宅のアトリエへと次々集めます。

 敏子さんの生前から、兄弟治さんのもとには当時小学生くらいの段四郎や猿之助など芸事関連の師弟が絵を習いに来たりもしていましたが、以降も茅ヶ崎ゆかりの画家や作家が大勢集まり、ここでデッサンを競いあったり、芸術論を熱く戦わせたりしたと言います。かの平塚らいてうも訪れていたと言いますから、茅ヶ崎を代表する芸術サロンと言っていいかもしれません。

 「みなさん、本気で激論を戦わせるんですよ。私は父やサロンの仲間たちとよく上野の美術館に行っていたんですが、その帰り道、必ずケンカのような議論になるんです(笑)。それはもう怖いくらい。それを見て、『大人ってこんなふうに主張し合うものなんだ』って学びました。私はかつて茅ヶ崎市で障害を持った方のオンブズマンを務めているのですが、しばしば『あなたがいると議論が沸騰するね』と言われました。忌憚なくものをいうって、今はあまり好まれないのかもしれませんが、私はそんな環境で育ったせいかキッパリと、自分にしか言えないことを伝えることが大事だって思ってます」

「人と同じだったら意味がない」穏やかにして負けん気の強かった父

 兄弟治さんは声を荒げることも居丈高に振る舞うこともなく、優しく穏やかな人だったと言いますが、その裏側には人に譲れぬ強い信念があったと永峯さんは語ります。

  「ある時学校の先生から、『お嬢様は変わってます、感情が豊かです』と言われたことがあったんです。決して褒め言葉ではないと思うんですが、父はそれを聞いていたく喜んで『人と違うのはいいことだ。違うからこそ生きている意味がある。同じだったら生きている意味なんてないだろう』と。とても穏やかそうに見えて、すごく尖ったところがありました」

 その片鱗は、成美学園を辞める時、生徒さんたちに贈った別れの言葉からも窺えると、永峯さん。

 「後年教え子だった方から思い出話として教えていただいたのですが、父は お別れの際、生徒たちに向かってこういったんだそうです。『先生はこれからも頑張る。君たちには絶対に負けないぞ』って。普通それをいうなら『君たちも頑張れ』でしょ?(笑)」

 創作への並み外れた情熱が感じられる、兄弟治さんらしい逸話ですが、生徒にも平等目線で接するという姿勢からは、創作では上下など無関係だという彼ならではの矜恃があったのかもしれません。

教師退職後は絵画に専念。複数回のスペイン留学など

 「母を亡くしていっときひどく落ち込んでいた父でしたが、しばらくすると創作に拍車がかかりました。いくつも画風に挑戦したり、油絵の絵筆で描いてみたり。水をあまり使わず油絵のように描く渇筆(かっぴつ)描法を取り入れたのもその一つですね。父はもともと塗り直しのできる油彩より、一発勝負で描く水彩の方が自分にはあっていると言っていましたが、この時期からあまり拘らずどんどん新しいことをやり始めました。一番の変化は、再婚してスペインをテーマに描くようになったことでしょうか」

 まだ高校生だった永峯さんはじめ子どもたちを残して、妻と何度もスペインへ足を運んでは絵を描いたのだそう。なぜそこまでスペインに熱中したのでしょう。

 「うーん、私にもわからないんですね。父の薫陶を受けて、人とは違う人生をと私も幾度も渡欧しましたが、スペインにだけは行っていないの。父の場所に踏み込みたくないというか、なんだか踏み込んではいけないような気がして…」

 永峯さんは近年、終活と称して兄弟治さんの絵の行き先を整理したこともあり、手元には数点しか残していません。3年ほど前に編集部が訪ねた際には、ハトヤバラの場所に永峯さんの幼い頃が描かれた油彩の作品がありました。この思い入れのある作品は多くの方にみていただきたいと考え、熊澤酒造さんに託したのだそう。

 三橋兄弟治さんの絵画は晩年のスペイン画、抽象画、人物画などモチーフは多々あれど、花を描くことはあまりありませんでした。それでも永峯さんがハトヤバラの絵を手元に残し、今一番目にする場所に飾っているのは、この絵がご両親、兄弟治さんと敏子さんそのものだからなのかもしれません。

 今年も、ハトヤバラの季節がやってきます。


三橋兄弟治(みつはし・いとじ) 1911〜1996年

茅ヶ崎市南湖生まれ。水彩画家。ほとんど水をふくませない筆で紙にこすりつけて描く渇筆描法を考案。水彩連盟初代理事長。日本美術家連盟会員。茅ヶ崎美術クラブ創立。茅ヶ崎ペンクラブを創設。ヨーロッパ、特にスペインを気に入り絵画の他、随想や詩なども発表。自著『掌篇集 天才でなかったピカソ』では「画家は画家であろうとするよりも、先ず詩人であり芸術家でなければならない」と語る

聞き手 : 藤原千尋

INFORMATION

第六天神社

住所 茅ヶ崎市十間坂3-17-18
TEL 0467-82-2384
営業時間 8:00 - 18:00
URL 第六天神社 / instagram

RELATED ARTICLES関連記事