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チガサキゴトよ、チーガ

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いまの世の中の音楽はどうなっているんだ〜昭和から令和へ〜

日本のポピュラー音楽が多岐にわたって花開いた昭和40年代から数々の個性的なアーティストをプロデュースし、今日もなお新人を手がけるなどエンターテインメントやアートの分野で活動を続ける寺本幸司さんと、茅ヶ崎から音楽を発信する音楽評論家の宮治淳一さんの対談が、昨年末に実現した。

寺本さんが、「いまの世の中の音楽はどうなっているんだ」という、宮治さんへの問いかけからはじまり、大衆文化としての音楽の変遷やそれぞれの音楽ビジネスとの関わり方などについて語り合った。

音楽を楽しむ形が変わった

 

寺本 今日ね、現役のプロデューサーとして一番話したいことは、本当にCDは売れないってことなんですよ。

宮治 第一CDを聴くプレイヤーがないですからね。

寺本 うちの娘は同じ業界にいながらCDを聴かないんです。ちょっと待ってくれよっていいたくなる。

宮治 でも、CDが売れなくてもいいんじゃないですかね。

寺本 そういう話をしたいんですよ。今、音源は好きなやつを選べばいいという時代です。1988年に日本は一斉にアナログのレコードからCDに切り替わって、1年半の間に90%はCDになった。

宮治 売り場のレコード棚が仕切られてCDになっていきましたね。

寺本 長い間生きて音楽の仕事をしてるんだけど、1974年に沢チエが矢野誠と一緒に作ったアルバム『23(Twenty-three Years Old)』が、10年くらい前にCDで2000枚、ポニーキャニオンから発売して約1年足らずで売り切れになったんです。そして今年の5、6月頃、その『23』を日本語の原版のままレコードで出すんだったら買うよ、という話がアメリカからあって8月10日に世界発売されました。

宮治 ほお〜輸出されたんですね。

寺本 原版の『23』のレコードは2年半くらい前に48000円ぐらいの値が付き、今は60000円というものもネット上に出ています。8月に発売されたものも日本にはほとんどなくて高値が付いている。

宮治 その原盤がうちにあったんです。世界中のガールポップのコレクターをしているニューヨークの女の子が探しいたんですが、たまたまそれを僕が持ってたんで、これはあなたが持ってた方がいいよって送ってあげたんです。7、8年くらい前かな。そしたらもう異常に感激して。そのころはもうCDがでてたかもしれませんが。

寺本 出てましたね。

宮治 おそらくそれで知ったんじゃないですかね。

浅川マキ、りりィ、ベルリンで売れる

寺本 7年くらい前かな、ロンドンにハワード・ウィリアムズというプロデューサーがいて、浅川マキのイギリス盤を出したんですが、そこでの楽曲の選曲が僕なんか想像つかない。

宮治 彼らの耳で決めたわけですね。

寺本 そう。「ちっちゃな時から」という曲は、シングル盤とライヴ盤との両方が入ってるんですよ。そんなこと考えられないじゃないですか。

宮治 両方とも入れたんですか、ふつうはどっちかにしますよね。

寺本 そのイギリス盤は、レコードとCDを同時に世界発売したんです。日本ではCDよりも先に売れたのはレコードなんですよ。その2年後かな、彼が独立して、ジャパンブルースというレーベルを作った。で、りりィをぜひ出したいっていうんで、ハワードが日本へ来た時に日本人の奥さんと一緒に浅草の天ぷら屋に行った。

寺本 浅川マキのレコードが売れたことが、すごい自信になったと彼は言ってました。一番売れたのは世界中でどこだと思いますかって言うから、やっぱり日本でしょって答えたら、ベルリンだったんですよ。

宮治 ドイツですか。

寺本 2年前に出したりりィのイギリス盤も一番イニシャルがでたのはベルリンなんですって。浅川マキの場合、ベルリンのファンは若い人が多くて男女比は半々ぐらい。何がいいとされているかというと、一番はじめに声、2番目にニュアンス。何を歌ってるかは日本語だからわからないけど翻訳見ると「やっぱりそうだ」となるらしい。俺なんかもビートルズやピンク・フロイドなんかを英語を聴きながら頭の中で想像して、後から訳読んで間違ってなかったなっていう聴き方をしたんだけれど、ベルリンの連中もそうなんだね。

宮治 日本人のほとんどが、洋楽ってそういう聴き方をしてますよね。聴いた瞬間に内容が分かる人なんてそんなにいない。

寺本 言葉はわかんなくてもニュアンスってのはね、僕らもわかってるよね。

宮治 演奏そのものに、それを聴いて歌える力がわいてくるわけですよ。言葉は違っても人間やっぱりコミュニケートしてるってことですよね。

チンドン屋と筒美京平

寺本 ある種それがワールドミュージックですよね。ちょっと話はずれますけど、僕は東京の月島っていう、もんじゃ焼きで知られるところで生まれたんですけど、ハワードと初めて会った時、もんじゃ焼きに連れて行ったらめっちゃくちゃびっくりしてました。あなたも店をやってらっしゃるみたいだけど、やっぱり食い物って人間の気持ちの一番奥に理屈なしに行くよね。

宮治 本当にそう思います。

寺本 そこからハワードとはね、ハワード、寺(テラ)さんという仲で話をするようになった。彼は日本のいろんなレコードも聴く機会があって、チンドン屋のリズムにはまって、日本中のチンドン屋と一緒に約4ヵ月間回ったっていう。そういう奴がいるんですよ。僕は下町に生まれたから子どもの頃からチンドン屋の音で昼寝から目が覚めるみたいな生活でした。そばに寄るとびっくりするような化粧をしてるおばさんが三味線弾いて歌ってる。チンドンやるのが商売だから、全然感情も何も入ってないところが僕はいいと思っていた。ハワードもそれがいいっていうわけよ。だからもう間違いなくね、世界は音楽に関して言うと、ノン・ボーダーですよ。

宮治 YouTubeの時代になって、地域差や時代差なく瞬時に音楽を聴けるわけですよね。昔はそんな地球の裏側のレコードなんて聴くことができなかった。いくらいい日本のポップスがあったとしても、海外の人は日本に行った友達に買ってきてもらうしかなかった。反対に日本は外国のレコードがいっぱい出てた。そういう意味では輸入過多で輸出はほとんどしてこなかった。

寺本 輸入盤といえば、僕は、筒美京平を思い出す。彼がまだポリドールにいた頃からの友達で、世に出てきてからも、ずっと付き合ってた。

宮治 渡辺さん(筒美京平の本名)ですね。

寺本 1970年代の終わり頃、一緒にやりませんか、と言われて彼の音楽事務所を面倒見た時期が4、5年あったんですよ。そこでびっくりしたのは、毎月25日くらいになると若い男にリストを渡してレコードを買いに行かせるの。当時のお金で20万円くらい、CISCOっていう輸入盤店から買ってきて、その後連絡がくるわけ。「ちょっと寺さん、今日こっち来れないかな、終わったらさ日本橋の店にワイン飲みに行こうよ」って。

 京平さんのご指定の店に俺も行くと「郷(ひろみ)くんの新曲でね、メロディーはできてるし、詞も悪くないから、これはいけると思ってるんだけど、なんかサウンドがつかまえられないのよ」って言って、このぐらいある(両手を広げて)枚数のレコードにみんな針を落としてたんじゃないかな。

 だれだれの3番目の曲のここなんだけどってまた針を落とす。このリズムいいでしょ。これにね、これを被せるのよ。それでエンディングはこうなって、間奏はこうで、そこで郷くんはくるっと回って歌えるから、その間合いを作って、というのを実際に目に見えるように音を出すわけですよ。僕が、「この間、(筒美さんの作ったメロディーは)誰かのイントロのアレンジで、誰かのをコピーしたって言ってる奴がいましたよ」って言ったら、大丈夫よ16小節じゃないよ、8小節しかやってないんだからって言う。筒美京平って人は、芸術家っていうんじゃなくて職人。

宮治 本当の職人ですね。パッチワークの職人。

寺本 ハワードの話に戻れば、彼みたいにチンドン屋に興奮する人が出てくる時代なんですよ。

宮治 そういう意味じゃ本当にボーダーレスだし、彼らからすると日本の音楽がこうやって発展してきたってことは一切知らないわけですよ。

寺本 そうそう。

宮治 いきなり全てが、ある日バーンと来たわけですよ。美空ひばりも、最近の若い女の子のシンガーソングライターも一緒に来ちゃってるわけですよ。

寺本 そうかそうか。

宮治 クロノロジカルに来てないわけですよ。そうなると、もう古いから嫌いだとか、新しいから好きとかっていう発想じゃなくて、自分好みは何だっていうものをストレートに追及できる。そういう意味じゃあ、チンドン屋に行ったっていうのもわかるなあ。

寺本 今は世界中そうかもしれないね。ハワードもチンドン屋にポンと行くんだもんね。だから面白い。

宮治 こういう広がり方っていいですよね。

面白い時代になった 

宮治 話は戻りますけど、CDとかLPとかカセットとか、かつてはパッケージ・メディアで伝えてたわけですよ。だから結局、輸出輸入っていう物が媒介しての伝達なんで、やっぱり限界があるわけですよ。それがスマホになっちゃったもんだから時間差はゼロです。

寺本 本当ですよ。youtubeの再生も回数が多いとお金になるみたいな話っていうのは、僕なんかはちょっと頭の中でまとまらないんですよね。でもね、そういう時代ですって言われた時にね、まあこれはいまだに現役だ、なんて言いながらやってられるのは、面白いなっていうふうに頭の中で転換するんです。でも、俺の中ではガラガラポンで、全部変えないといけない。原盤印税はいくらでとか、そういう計算はもうやめようと。

 今、僕はTETSUーKAZU(テツカズ)っていうグループをプロデュースしていて、配信の方に向かっているんです。僕が基本的に元気なのは、面白いことを探すからなんですよ。僕の好きなワールドミュージックなんかを、寝る前にスイッチ入れたままにして月980円で何度も聴くわけですよ。

宮治 プレイリストみたいなのを作るわけですよね。

寺本 そうそう。おお、いい曲あるじゃん、みたいなね、新しい曲との出会いが生まれる。そういうね、喜びをね、僕とあなたみたいな、長い間こういう仕事をしている人間が、もう一度味わえるっていうのは、面白い時代だよね。

宮治 そう思います、本当にね。外に出ず家にいてこんなに芳醇な音楽を聴けるなんて、いい時代まで生きたと思いますよ。

寺本 今日、そういう話を一番したかったんです。俺の周りにはそういうのいないもん。レコードメーカーと話をすると旧譜を売ることで頭の中いっぱいで。だからミュージシャンが離れていっている。

宮治 僕はレコード会社出身で、まだレコード会社っていうのが音楽の業界の真ん中にあった時代にいたわけです。

寺本 ど真ん中ですよ。

宮治 その頃はレコード、カセット、それからCDが出てきて、4、5年間は同時期に3つ編成したんですよ。カセットは曲の順番がレコードと違うんです。90分テープにすると45分、45分じゃないですか。終わったらすぐひっくり返して始まらなきゃならないから、レコードとは違う編成にしないと合わなくなっちゃうんです。

寺本 ああ、そうなんですね。

宮治 パッケージ・メディアでどう生き残るかってことをずっと考えてた。先ほどの寺本さんの話じゃないけど、youtubeは確かに1回は大した金額じゃありません。レコード会社は2500円のCD売って1750円入ってきて、いくつかのコストを抜いて大体500円くらいの利益があるわけですよ。それと比べたら少ないんだけど、レコードとかパッケージ・メディアを売ろうとすると、3つの嫌なことがあるわけです。まずは注文を取らねければいけない。レコード屋さんに行って、「何枚いります?」「10枚でいいよ」「社長、30枚いきましょうよ」っていう営業の人間が必要なわけです。で、3ヵ月経って売れないと返ってきちゃうんですよ。

寺本 買取りじゃないからね。

宮治 それで今度は在庫になる。この3つがいま全部なくなってるんです。

寺本 僕がこの業界に入ったのは60年代の後半なんだけど、レコード会社で一番な元気だったのは、セールスマンです。彼らが会社を動かしてるって思ったなあ。

宮治 コロムビアの営業を1964年ぐらいから始めた人がいたんですが、あの頃コロムビアは強大で、特に邦楽は、都はるみとか、美空ひばりとか持ってる。彼が「お前のとこは何枚いるんだ」っていって、「30枚くださいって」と応えると、「お前最近成績が悪いから10枚でいいな」って低くしちゃうんですよ。どっちが営業してるんだっていうくらいセールスマンが強い。ところが、68年にCBSソニーができて以降、ワーナーパイオニアや外資との合弁会社が次々出来て、それから立場が逆転してしまったんです。それまでは営業、まさにおっしゃる通り営業が一番偉かったんですよ。

寺本 古い商売だなと思ったけど、途中からどんどん変わっていきましたね。

宮治 レコード会社は基本的にはメーカー。作って、お店に置いて、残りを回収して。コップ売ってるのと何も変わらないですよね。ただ、コップから音が出ないけれどレコードから音が出るっていうだけの話なんです。ところが、スマホになったら、もうコップいらないでしょって。

寺本 全くいらないもんね。

プロデューサーという仕事

宮治 でも僕はね、アイラブ・レコードなんですよ。youtubeも大好きだけど、レコードはレコードで、パッケージ・メディアとして美しさがあると思う。だから両方とも拮抗するものでは全然ないっていうか、チョイスの問題ですからね。パッと聴いて、ああいいな、これレコード出てるならレコード買おうっていう。ところで一つきいてよろしいですかね。

寺本 どうぞどうぞ。

宮治 僕はずっと洋楽をやってたんで、音とアーティストが一緒になったもの、ジャケットも決まっているものをどう日本に広げるかを考えてきた。邦題をつけて、日本の音楽ファンに馴染むようにしてやるので、オリジナルでもなんでもないんですね。基本的にアーティストを作る立場では全然なかった。同じレコード関係でも、全くわけのわからない19歳の子をデビューさせる、その原動力って一体何なのかなっていうのは、音楽アーティストをずっとプロデュースしている寺本さんからすると、これはいけそうだ、という感覚があるんですか。

寺本 いくつかの要素はあるんだけど、一個にまとめると、日本とアメリカの芸能界っていうかな、まあ最近はアーティストなんて言葉を使うけれど、タレントだとか歌手だとかを抱えるプロダクションというのは日本だけの存在なんですよ。渡辺プロとか、ホリプロとかね。そういうところに新人歌手っていうのがいて、歌だけでなくどんどんテレビのドラマにも出るわ、バラエティ番組にも出るわっていう感じになって、そういうところのスターを作って巨大化するのがプロダクションで、そういうシステムはアメリカにはないんです。

宮治 確かにないですね。

寺本 基本的にアメリカは、歌いたいってやつを見つけるのはレコード会社なんですね。

宮治 レコード会社のなかのA&R(Artists and Repertoireの略)という職種の仕事ですね。

寺本 A&Rが、たとえばニューヨークまで行かせてあげる。でも当たらなきゃ、アーティストはトボトボと帰ってくるしかない。まさにカントリー・ミュージックの歌にあるような人生を送っているんですね。それで、売れ始めるとレコード会社も、彼のスケジュールを管理する。アメリカ中を横断するようなライヴを企画するというのはエージェンシーが引き受けて、スポンサーをつけてやるんですよ。

宮治 その間にいわゆるマネージャーといわれるような人はいるんですか。

寺本 面倒を見る人はいるけど日本で言うマネージャーに近いのはプロデューサー。アメリカには大プロデューサーがいてエージェントやツアーを直接仕切ったりします。僕ら日本のプロデューサーは、あくまでもプロダクションと交渉しながらやるんだけど、りりィの場合は売れちゃったんで、僕はJ&Kという音楽出版社で、好き勝手に自主制作でレコード会社と一緒に作った。たまたまそれが売れたから、なんとなく僕は信用を得てアドバンス(前払い)もしてもらえるようになった。そういうシステムがアメリカにはないんですよ。

難しいアーティストがいい

宮治 では、日本独自としても、音楽出版社がマネージメントもやってたんですか?

寺本 僕らの背景には小澤音楽事務所という菅原洋一がいたでっかい事務所があって、浅川マキも沢チエも小澤音楽事務所の所属だったわけです。そういうプロダクションはあるけど、J&Kの作るもんに関しては文句言わせないよってところがあった。ただ二人とも個性が強いと言えばいいけれど、扱いにくいアーティストだから、マネージメントをやってる人間がいつもふーふー言ってるんで、僕が間に入ってマネージメントにも口出すようになるわけです。それが成功したとも言えるんだけど。

宮治 なんとなく音楽業界に長くいて、アーティストに信用される人と信用されない人がいますよね。

寺本 それは原点ですね。何が信用かってよくわかんないんだけど。

宮治 不思議とこの人の言うことは聞くというケースがある。それってメカニズムとしてわかんないですね。人間と人間、馬が合う合わないっていうか、それに近いものがあるような気がする。

寺本 「なんでそんな難しい歌手とかアーティストばかりプロデュースするんですか」って聞かれるんですけど、難しいのが好きなんだろうな、面白いんだよ。

宮治 寺本さんの本を読んでいるとね、パーッと見た瞬間に本当に面倒くさそうな人がぞろぞろ出てくるわけですよ。桑名とかさ、この人も面倒くさそうだな、なんか従順な人がほとんどいないっていう感じで。でも、だからヒットしたんでしょうね。

寺本 さっきおっしゃったようにね、なんかこの人は信用できるっていうものをお互いに目線で分かり合えるようにならないといい仕事はできませんねっていうのが、僕のセオリーではありますが。

宮治 だからそれがやっぱり寺本さんのプロデューサーとしての矜持というか、手がけたアーティストのラインナップを見ていると、この人を束ねたんだからすごいよねっていう気がします。

寺本 今日、あなたに聞きたかったし、言いたかったのは、僕が影響を受けた人は、死んだ人も多いけど、全部レコード会社の洋楽出身なんですよ。僕は音楽と映画に、子どもの頃から憧れているなかでアメリカを見ていた。

 戦争が終わったのは僕が6、7歳の時だから、それまではもう鬼畜米英ですよ、本当に。姉と兄がFEN、つまり極東放送を聴いていて、朝、姉さんが僕の弁当作るときに、ラテンミュージックのチャンネルを聴くんですよ。ステップ踏みながら。そういう影響がすごくあった。兄貴も好きだったんですよ。僕が中学3年のとき、ペレス・プラード楽団が日本に来て、兄貴に日劇に連れて行ってもらった。もう興奮しちゃって。

宮治 楽団は全員で、フルバンドで来たんですか?

寺本 そうそうそう。だから僕はラテンから入ってるんで、いまだにラテンっていうのは体が動きますね。

宮治 アメリカの音楽って、いうならば世界の歌謡曲の大供給源だったわけですよ。アメリカでヒットしたものは、いろんな国でヒットした。でも今はもう完全に音楽はドメスティックなんですよね。それぞれの国にそれぞれの音楽があるけれど、ネットのおかげでなんでも知ることもできる。だから、深く知ろうとする人は全部知ることができわけです。反対に全体がこんな感じっていうのはもうほとんどないし、アメリカも供給源になっていません。

根源は“ミーハー”

寺本 コロムビアともワーナーとも、できた頃から付き合ってきたけど、ワーナーがワーナーパイオニアになった時から、栗山章っていうやつがいて、彼と一緒に桑名をみつけてファニー・カンパニーを作ったんですけど、彼は日本のレコード会社にいないタイプのプロデューサーでしたね。もちろん英語もしゃべれたし。

宮治 ファニカンは、そういえばワーナーパイオニアですね。ワーナー+ナベプロですからね、あの頃は。渡辺晋さんが社長ですもん。でも、浅川マキさんなんかの場合、アルバムの曲目について、これは入れない方がいいとか、そういうところまで立ち入ってたんですか?

寺本 1枚目は、僕が中心になって、寺山修司と僕とで作って、2枚目は、浅川マキからこういう歌を歌いたい、こういうのをやりたい、でも寺山さんとこういう点で合わない、とかいうようなやりとりがあって、どちらかっていうと僕がアレンジしてやってたんです。3枚目の、紀伊國屋でのライヴが一番今でも売れてるんですけど、それをやるあたりから、僕は浅川マキの中にセルフプロデュースする才能を見たね。例えば彼女には田村仁というカメラマンをつけてるんですけど、撮った写真のなかでこれを使いたいとなったとき、その顔つきを自分の中で意識を持ってするようになり、どんどんマキが変わっていくんですよ。そういう浅川マキを見て彼女に意見を聞くようになる。

 セリフもね「今日さ、ここに来る途中ね、リハだから早く入らなきゃまずいと思ったんだけど、衣装が来るのが遅れたんで、その衣装を持ってタクシーに乗ったら、タクシーの運転手さんが実は一週間前に運転しはじめたばかりで・・・、たどり着いたら車が並んでるんで、申し訳ないって言って裏から入ったのよ」みたいな話をうまくするんですよ。そういう時の喋りの間合い、それで?って相手が思うような間合いを、寺山さんが褒めてましたからね。「浅川マキってさ、立ち姿とセリフの間が指示なしでもいける。マキが喋るとそこに空気ができるんだよ」って、天井桟敷に一回出した時に寺山さんが、褒めてくれたんですよ。

宮治 ああ、やっぱりそういった才能は天賦のものがあるんでしょうね。素晴らしいですね。

寺本 そうそうそう。寺山さんの「かもめ」は名曲で、歌詞が「自分の好きな女に赤いバラの贈り物」っていうのもいいんだけど、その路線でずっと行かれても・・・、っていうのは浅川マキにも僕にもありました。寺山はもう17歳のカルメン・マキにもぞっこんだし、まだ浅川マキは売れてないし、というようなことが地べたではあるんですよ。

宮治 ちなみに「それはスポットライトではない」(ロッド・スチュワートによるヴァージョンが著名なアルバム『Atlantic Crossing』1975年収録)って曲があるじゃないですか。なぜあの曲やったんですか?

寺本 あれはね、浅川マキはね、ミーハー的な部分ではロッド・スチュワートにゾッコンだったの。

宮治 へー、だからか。

寺本 「それはスポットライトではない」を日本語詞にしたのは、金子マリに歌わせるためでした。その頃金子マリが二十歳。浅川マキの6枚目アルバムに入れたんだけれど、浅川マキのステージで金子マリや亀渕有香がコーラスで入ったんで、それ以降この歌はマリにあげたということになった。でもマリはもらったものの全然タイプの違う歌詞だから……。というふうな曰く因縁付きですが、根源はロッド・スチュワートなんです。

宮治 本当なんですか。

寺本 俺自身もそうなんだけど、もともと音楽で飯を食おうとは思ってなかったから、あなたもある面で話を聞きながらそうじゃないかと思ったんだけど、音楽については、客観的に全て見えてるように思いながら、根源はやっぱりミーハーなんですよね。こいつのこのヴーカルのこの部分の音がたまんないよっていう。

宮治 わかります、わかります。

寺本 という意味で、浅川マキがロッド・スチュワートに感じるところを、僕は、あっ、これはいけるなというふうに思うことがよくあります。やっぱりちゃんと耳でつかまえてるな、ロッドの魅力をって。

アーティストを支える

宮治 ある程度完成されたアーティストって別にアドバイスが必要ないのかと思うんですけど、やっぱり彼らも人間ですから、見えるとしたら180度前しか見えないんですよ。やっぱり後ろをちゃんと見てくれるのは、マネージャーやプロデューサーで、そういう人たちの存在って、そのアーティストにとって、ものすごく大きいと思いませんか。

寺本 そうですね。やっぱり浅川マキにしても、りりィにしても、桑名にしても、誰にしても、僕がやってそれだけの仕事をちゃんとし終えたアーティストに関しては、やっぱり「寺本さんがいつも後ろにいるから」って思われている。僕は別に意識して「咳払い」はしないけど、浅川マキは客が5人の頃から僕は関わっているから、2000人、3000人入ったところでも、どこかで僕がリハの途中で咳をすると、「あ、寺本さんがそこにいるから、どこか安心して歌えるのよ」って思われる。

宮治 やっぱり、不安なわけですよ、アーティストとしても。でも、この人が見てくれてる、聞いてくれてるって大事ですね。

寺本 ブレークするのはわかるけど、そこはブレークしないで、ずーっとお前の語りでいった方がいいと思うよ、みたいなことは言うんですよ。

宮治 ハッと気が付くわけですね。やっぱり前しか見られないわけですよ。後ろから見てくれる人が絶対にアーティストには必要だと思うんですよ。

寺本 あなたは洋楽のディレクターとして一番いい時代に、いい仕事をしたと思うんだけど、あなたの中で、この商売って面白いなっていう部分と、僕がこの商売って面白いなっていうところはやっぱり違うと思う。僕の場合、マネジメント的なところがすごくある。

宮治 いや、だからそれにはすごい憧れがあるんですよ。と、同時に怖いなって思う。ナマモノを扱う怖さ。僕の場合はパッケージ。きまったものをどうやって売るかっていうことしか考えなくていいわけですよ。その人が、その後どうなるかなんて知ったこっちゃないわけです。だからその分、もしマネージメントをしてみて、アーティストが成長を遂げたのを見届けたときの感激っていうのはすごいんじゃないかなという気がするんですよね。同じ音楽業界にいても、寺本さんは僕とは全く逆の方向にいらっしゃったんですよね。

寺本 長谷川きよしっていうのも、デビュー時から浅川マキと同じように、ニューミュージックというジャンルで、ど真ん中には入ってこないアーティストで、好き嫌いもはっきり言える男だった。でも気持ちで歌を歌うやつだから、ちょっと乗らない時の歌がいまひとつで。そんな時、マキが僕の代わりに言ってくれたりするんですよ。マキに言われるとお姉さんに言われるみたいで、彼は何でもハイハイ言うんだね。

宮治 なるほど。

寺本 浅川マキは、僕のやり方見てるから、いろんな人にプロデュースをしてくれと頼まれたり、約束したものがあったらしいんだけど、ちゃんと一枚やったのは長谷川きよしだけだもんね。写真から選曲から、レコーディングも全部立ち会ってやったのはきよしだけ。いまだにきよしはそのことを嬉しく思ってんじゃないですかね。

宮治 なるほどね。やっぱり自分はずっと いいプロデューサーに恵まれたっていうのがあるから、少しでもそのエッセンスを生かそうと思ったんじゃないですかね。今そういう形で、アーティストをじっくりプロデュースするなんてことはあるんですかね。

寺本 僕がやってる頃は、レコード会社とチームを作って、チームのリーダーみたいになってるプロデューサーいましたけど、僕のようなプロデューサーはいまだにいません。だから生き残ってるっていう気もしますけど。

65歳デュオをプロデュース

宮治 今こんなタイプのアーティストがいたら、ぜひプロデュースしてみたいっていう人はいますか。

寺本 さきほど話したTETSUーKAZUって二人組を今手がけているんです。

宮治 テツカズですか?

寺本 はい、それがね、二人とも65歳なんですよ。

宮治 それでデビューなんですか。

寺本 デビューなの。まったくタイプの違う二人で、TETSUーKAZUのテツの方は、ヴォーカルもやるけど基本的にギターで、カズは、リズムセクションのプレーヤーではあるんだけど、これもヴォーカル。ヴォーカルで勝負したいっていう二人を僕は見たときに、今の時代の中でこれが欲しかったんだよって思っちゃったの。そういう意味では年末から年始にかけてちょっと元気が出てますね。

宮治 面白そうですね。今日はこんな風に話ができて嬉しかったです。

寺本 僕は面白いことしかやらない。あなたも面白いことずっとやってきた顔してるよ。

宮治 おかげさまで、というか、やりたくないことはやらない主義でやってきたんです。

寺本 あなとは年はだいぶ離れてるけど、久々に楽しい話ができました。ありがとうございます。

宮治 こちらこそ、ありがとうございます。


寺本幸司 てらもと・ゆきじ

プロフィール:1938年東京生まれ、大磯在住。1968年、音楽出版ジュン&ケイを設立。以降、浅川マキを皮切りに、音楽プロデューサーとして数々の歌手を世に送り出す。プロデュース作品「夜が明けたら」(浅川マキ)、「こんなに遠くまで」(南正人)、「私は泣いています」(りりイ)、「雨の物語」(イルカ)、「セクシャルバイオレット No,1」(桑名正博)など多数

音楽プロデューサーとは何か 〜浅川マキ、桑名正博、りりィ、南正人に弔鐘は鳴る

1,430円(税込)/寺本 幸司 :著 毎日新聞出版/2021年刊

歌は死なない——伝説のプロデューサーが〈すべて〉を語った唯一無二のドキュメント!昭和の音楽シーンを支えた音楽プロデューサーと、時代を彩った歌手たちの熱い人間ドラマ。昭和歌謡や60~70年代ポップスが改めて注目を集める今、伝説の歌姫・浅川マキをはじめ、著者が手がけた名曲の誕生秘話や歌手たちとの出会いと別れを描く、これまであまり語られてこなかった日本ポップス史の空白を埋める貴重な証言であり時代を駆け抜けた音楽家たちの群像劇です。

【登場する人物】浅川マキ、寺山修司、東由多加、下田逸郎、りりィ、杏真理子、阿久悠、吉田拓郎、南正人、坂本龍一、桑名正博、イルカ、木田髙介、加藤登紀子、野坂昭如、松本隆、細野晴臣、内田裕也……


宮治淳一  みやじ・じゅんいち

プロフィール:1955年茅ヶ崎市生まれ、在住。音楽評論家・プロデューサー、ラジオDJ。「ミュージック・ライブラリー&カフェ ブランディン」を経営する傍ら、茅ヶ崎FM設立発起人のひとりでもあり、「エボラジ5UP」、「パリミキpresentsチガサキ・ドーナツ・レコード・ショップ」のパーソナリティを担当している。他、ラジオ日本「宮治淳一のラジオ名盤アワー」、湘南マジックウェイブ「宮治淳一のアワ・ヒット・パレード」DJも。桑田佳祐さんの小中学生時代の同級生で、サザンの名付け親。さらなる「ミュージックシティ茅ヶ崎」の実現を夢見ている


川井龍介 かわい・りゅうすけ

プロフィール:ジャーナリスト、ノンフィクションライター。1956年神奈川県生まれ。茅ヶ崎在住。慶應大学卒業後、毎日新聞記者などを経て独立。『122対0の青春』、『「十九の春」を探して〜うたに刻まれたもう一つの戦後史』(講談社)、『伝えるための教科書』(岩波ジュニア新書)、『大和コロニー フロリダに「日本」を残した男たち』、『数奇な航海 私は第五福龍丸』、『切ない歌がききたい』(旬報社)など著書多数。このほか、阪神淡路大震災、東日本大震災での消防隊員の活動の手記を編集、また、日系アメリカ人文学の金字塔『ノーノー・ボーイ』(ジョン・オカダ著)を翻訳出版。昨年、類い稀なギターテクニックと歌唱力で独自の音楽世界を貫く、長谷川きよしの自伝『別れのサンバ 長谷川きよし 歌と人生」を監修、長谷川氏と音楽イベントを開く。コロナ禍に「日本の海岸線」をテーマに全国の海岸沿いの旅を敢行、現在記録を執筆中。

音楽プロデューサーとは何か 〜浅川マキ、桑名正博、りりィ、南正人に弔鐘は鳴る

長谷川きよし:著 / 川井龍介 :監修 / 1.870円(税込) 旬報社/2024年刊

1969年、ガットギターの弾き語りによる『別れのサンバ』で鮮烈なデビューを果たして以来、独自のスタイルでオリジナルからシャンソン、ブラジル音楽などジャンルを超えて名曲を歌い続ける長谷川きよしが、デビュー55周年を記念して、これまでの歌と人生を初めて語った自伝。

カメラ:奥田正治 / ライター:小嶋あずさ
撮影場所:ステージコーチ

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