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チガサキゴトよ、チーガ

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プラごみに思いを馳せてみた

 大学4年生になる娘が、最近ゴミ拾い活動を始めた。県内で清掃活動を展開する学生団体の一員になり、ゴミ拾いや関連イベント、今後の活動を模索するオンライン会議なんかに参加している。

 環境活動に一切関心のなかった女子大生が一体なぜ? どういう風の吹き回し? ひょっとして就活の「ガクチカ(学生時代に力を入れたこと)」のためとか?……と思って尋ねると、意外にも答えはノー。やろうと思った理由は自分でもわからない、インスタで見つけて衝動的にやりたいと思って参加した、ゴミ拾いしている間はともかく気分がいい、またやりたくなる、というのだ。

 ゴミ拾いをまたやりたくなるって、どういう心理なのだろう。仲間と一緒が楽しいというのもあるようだが、それはおまけにすぎないらしい。理由はなんでも続けたくなるならそれに越したことはないが、実際理由もなくゴミ拾いを続けるのは難しい。 目的や動機がないと、たぶん途中でやめてしまう。特集で紹介したプラごみで作品を作る画家の米山さんも、「ゴミ拾いを続ける装置として作品作りを始めた」と言っていた。ということは、この作品は継続という行為とともにあり、Plastic Planet(プラスチックプラネット)という作品群にはその時間時の流れも描かれている、と私は解釈したが、そんなことを考えながら作品を眺めるうち、ふと環境意識とは関係のない別の思いが湧いてきた。一言で言い表すのは難しいが、強いて言うなら「郷愁」だろうか。

 作品に使われているおもちゃのかけら、キャップのフタ、塩ビパイプの破片などは、かつては人の暮らしを支えてくれたものたちだ。文化的な暮らしに不可欠と言ってもいい。今は役に立たなくなったゴミかもしれないが、私たちは紛れもなく、これらプラスチックの恩恵を受けているはずだ。

 にもかかわらず、今やプラスチックにはどこか悪者のイメージが漂う。過剰な使用を控えたり、使い捨てのプラスチックを減らすことにはもちろん賛成だが、無慈悲に捨てられると思うとあまりにも悲しい。サヨナラするその時まで大事に使い、然るべきルールに従って葬るのがスジってもんじゃないかと思うのだ。

 米山さんの作品のプラごみは、どれも丁寧に汚れを落とし、きれいに洗われている。そのせいか、色鮮やかで楽しげにも見える。それは作品作りの一工程にすぎないのかもしれないが、私には鎮魂にも見える。

 打ち捨てられたプラごみは作品になることによって、その魂を鎮めてもらっている気がする。というのは私の考えすぎだろうか。

 ひょっとすると、娘が「ゴミ拾いをやると気分がいい」と言っていたのもこれと何か関係が? 鎮魂? 魂の浄化? いやいやいやいや、なんとなく気分がいいと、だから続けるんだと、誘い合ってやるんだと、それで十分という気もしてきた。

 ならば自分も真似をして、ゴミ拾い活動やってみようか。やるならやっぱり海岸清掃。海の街茅ヶ崎の住人として、海辺のゴミには責任を持つべきよねなんて思ったが、海岸のゴミ=海岸で捨てられたゴミとは限らない。なんでも海岸に流れてくるゴミの7割は、川の流れに乗ってやってくるのだとか。要するに街中のゴミが飛ばされ、流され、はるばる海へと旅してくるらしい。

 ゴミの旅はいつになったら終わるのか。それを終わらせられるのは多分、私たち人間以外にいないのだ。


藤原千尋
ふじわらちひろ/1967年東京生まれ、2006年より茅ヶ崎市松が丘在住/出版社勤務を経て単行本ライター。ビジネス、教育、社会貢献、生き方老い方など幅広いジャンルの企画とライティングを手がける。

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