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生誕120年記念企画 小津安二郎の痕跡をたどる〈後編〉
一枚だけ飾られた肖像写真、
二番の天井と梁の色、おゆうさんの献身と
三つの部屋、
四代目・勝行さんの大切な思い出…。「伝統のないところに、芸術は生まれない」と小津は言った。是枝裕和監督たちは、今も茅ヶ崎館から映画を生んでいる。
五代目・森浩章
ここに居て、当時の小津監督の気持ちになって考えてみるのだと語る浩章さん。
大正12年に松竹キネマ蒲田撮影所に入社して、その後すぐに関東大震災が起きて、身体が大きかったから重いカメラと三脚をかついで撮影助手になって、30代ですでに名作を作っている。茅ヶ崎館にやって来た昭和12年の9月には日中戦争で戦地へ赴く。そこでは無情な戦争体験もしている。それまでは松竹の伝統的な人情派映画を作り、監督自身の体験をネタにして脚本を書いていたが、日中戦争以後は、またそれがものすごく深くなっていると感じるという。
無事に日本へ帰って来た小津は、また茅ヶ崎館で昭和16年から18年まで仕事をして、今度は太平洋戦争でシンガポールへ行く。そのシンガポールで終戦をむかえるのだが、滞在先にはイギリス軍の置いていった、連合国の兵隊が娯楽として観るために封切られたばかりのハリウッド映画があった。その映画を、同じ戦地に赴いた松竹の映画スタッフらと内緒で夜中に観ていた。『ファンタジア』、『小市民ケーン』、『風と共に去りぬ』などを観ているのだ。
元々小津はジョン・フォード監督の作品なども好きではあったが、それはものすごくショックを受けたことだろうと想像する。敗戦国の日本に帰って、いったい自分は何を作ればいいのだろうかと悩んだはずだと話す。
わかっているだけで小津の5作品に茅ヶ崎の海岸や風景が出てくる。それらを観るだけでも貴重な体験になる。富士山を映すと富士山が主役になってしまうので絶対に映さなかった。よく観ると烏帽子岩は映っているから、この作品は茅ヶ崎で撮影したのだなとわかるという。
今年の茅ヶ崎映画祭では、終戦後茅ヶ崎館に戻って最初に脚本を書いた『長屋紳士録』(1947年)を上映する。浩章さんの好きな小津映画のひとつだという本作。「上野の西郷隆盛像のまわりでシケモクを吸っている子どもたちの姿を映すラストシーンを観ると、戦争孤児への思い、こういうことが言いたかったのかとわかります」という。次作の、戦争に翻弄される夫婦の悲劇を撮った『風の中の牝鶏』(1948年)については、そこを撮るのか、避けられなかったのだろうなと感想をもらす。
『風の中の牝鶏』までの小津は、茅ヶ崎に住んでいた脚本家の池田忠雄と柳井隆雄、齋藤良輔らと脚本を書いていた。駅から茅ヶ崎館まで歩くと途中に家はぽつぽつとしかなかった時代、そのぽつぽつの中に池田と柳井の家はあった。撮影所が蒲田から大船に移った昭和11年の翌年、この2人に誘われて小津は茅ヶ崎館へやって来たのだった。
戦後、世の人々にとって映画は娯楽だった。小津の映画は暗い、小津はもう終わったと批評されることもあったという。「そこからですね。野田高梧とコンビを組むようになって、原節子を起用して、『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)を作っていきます」
映画監督たち
小津にあやかって二番で執筆されていた森崎東監督と、ゆっくりと話しをする大変貴重な機会があった。森崎監督は、戦争に翻弄された家族をどう書くのかということをすごく考えていた方だったと述懐する。小津はあからさまに戦争を書かずに、戦争によって何かしらの影響を受けた家族を書いた。家族のだれかが戦地から帰って来られないとか、残された奥さんだとか。家族の関係が何かによってずれていく。そんな離別がテーマにあった。小津と若手の頃から親交のあった黒澤明監督は晩年、小津映画を観ては泣いていたらしい。
また、2003年に来館された時の新藤兼人監督をよく憶えている。居合の達人みたいな佇まいで、後ろ姿にまで殺気をまとっているような老人だった。そんな新藤さんに色紙をお願いした。 前述した通り茅ヶ崎館は、宿泊客に色紙を書いてもらってもいっさい飾らないのだが、じつは多くの方々からいただいた色紙があるのだという。新藤さんはその時、力強い文字で色紙に「生き抜く」、「生きる」といった意味の言葉を書かれたそうだ。
新藤監督が亡くなられた2012年、その日は是枝裕和監督が二番で仕事をしていた。新藤さんの訃報を伝え、2003年に書いていただいた色紙の話を添えると、「学生の頃、新藤さんの授業を受けたことがあって、そこで新藤さんと喧嘩をしたことが思い出です」としみじみ告げられた。
参考文献:石坂昌三著『小津安二郎と茅ヶ崎館』(新潮社・1995年刊)
writer :小島秀人( 株式会社カノア)/ 場所:茅ヶ崎館