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チガサキゴトよ、チーガ

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ありがとう 茅ヶ崎! 加山雄三

茅ヶ崎は おれを育ててくれた街だと 今でも思ってるよ

撮影:位田明夫 ヘアメイク:丸山良 文:小島秀人 株式会社カノア  協力 加山プロモーション

茅ヶ崎のみなさまに支えられて『Cheeega』は創刊5年目に突入しました。そして、いよいよ、ついに、加山雄三さんにご登場いただきました! 茅ヶ崎市の名誉市民にも選ばれた加山さんに、聞きたいことを山ほど抱えてのインタビューです。

NHK『紅白歌合戦』出場は実に17回。誰もが口ずさむことができるヒット曲をいくつもうみだし、俳優業でも若大将シリーズが大ヒット。マルチすぎる才能を発揮する国民的スターは幼少期から33歳まで茅ヶ崎に住んでいました。

少年時代のやんちゃな加山さん

編集 よろしくお願いします。加山さんにとって茅ヶ崎とはどんな所でしょうか。

加山 茅ヶ崎はおれを育ててくれた街だと今でも思ってるよ。一番長いこと、33歳まで住んでいたからね。特別な思い出もあるさ。ちょっと前にNHKの番組スタッフと一緒に歩いたんだけど、全然変わっちゃったな。雄三通りなんて、まわりは畑だったからもっと広々としていたよな。今はきっちりと建物も建ってて。それ以来、茅ヶ崎には行ってないね。いろいろと情報はもらっているけれど。

編集 冨貴堂が復活したんです。上原謙さんが撮影のときにパンを買いに来られていたと聞きました。冨貴堂というパン屋さん(冨貴堂へリンク)ご存知ですか。

加山 知っているよ、有名じゃないか。売ってるものは何でも美味しかったからね。給食も冨貴堂だったと思うよ。

編集 茅ヶ崎小学校ですよね。

加山 小学校といえば、東海岸小学校の校歌も作ってるよ。歌碑は作詞した岩谷時子さんだけどね。

編集 茅ヶ崎のお店に行った記憶はありませんか。

加山 店の思い出はあんまりないね。食事は自宅でだったからね。

編集 海でとってきたイシハマグリを調理されたのが、料理をするきっかけになったとか。

加山 「これ、(加山さんがとって来た大量の貝を)だれが調理するんだ、いちいち大変じゃないか」って親に怒られたんだよ。だから「ようし見てろ、このやろう」と思って、大きな釜で茹でて、貝が開いたら一度お湯を落として、今度は醤油とみりんとちょっと砂糖を入れて煮るんだよ、佃煮にするわけだよ。それを食べさせたら「美味いなあ」って両親がものすごく褒めてくれたんだよ。そのうち、今度は烏帽子岩まで行って、サザエを山ほどとってくる。サザエの佃煮なんて贅沢なんてもんじゃないよ。

編集 今はとってはいけませんからね。

加山 昔からとっちゃいけないんだよ(笑)

編集 そうでした。茅ヶ崎の思い出はやっぱり海ですか。

加山 終戦直後にね、おれの家の隣にあった松林が全部伐られて製塩所が出来てさ。海から海水を引いて、それを電気ヒーターで焚いて塩を作っていたよ。それから、家の斜め隣に弾薬庫もあった。庫内の火薬が爆発してもいいようにコンクリートと石で出来ていたよ。しばらくほったらかしになっていた。そこで、かくれんぼしていたな。

編集 憶えている小学生のころの友だちはいますか。

加山 鈴木。クラスに6人もいたよ。ケイゾウがいたな。ヤスオもいたな。一番嫌味を言われたけど、最後は仲良くなった。助けくれたんだ。家は全然遠かったね。小学生の頃じゃないけど、昔はよく喧嘩をしたな。ある時、駅の近くに住んでいた同い年のいとこを車で迎えに行って帰ろうとしたら、近所で道路工事をしていた人たちがさ、車の前から動かなくて邪魔をすんだ。「どけよ」って言ったら車を蹴飛ばしてきたんだ。それで頭にきてさ、木刀を取りに一旦家に帰ったの。親父にさ「何するんだ」と聞かれて、「喧嘩するんだ」と言ったら、「持って行ってもいいけど脅かすだけだぞ、叩くな」「叩かねえよ」って返事して持って行ったんだ。

編集 よく憶えていますね。

加山 そりゃ憶えているよ、相手は18人もいたんだから。氷を切るノコギリをぶんぶん振り回していたんだから。

編集 相手は一気に降参じゃないですか。

加山 にらみ合いだよ。近所の人がさ、それを見てお巡りさんを呼んだんだ。赤色灯も付けないで静かにパトカーがやってきて、捕まちゃったよ。藤沢警察署に呼び出されて念書を書かされた。喧嘩では絶対負けないね。

編集 その頃からの負けず嫌いですね。

加山 負けず嫌いなんてものじゃないよね。勝つまでやる。

親父が買ってきたワイヤーレコーダー

編集 ワイヤーレコーダー(※1)のことも教えてください。

加山 親父が買ってきたんだよね。家に置いてあったからさ。針金一本に音が入る。こりゃおもしろいと思って。ほんとうに音が入るんだよね。

編集 何を入れたんですか。

加山 最初はね、「あ、あ」って。自分の声を聞いたら変な声だった。その次に、ピアノを弾いてピアノの音を入れた。それを逆回しで聞いてみたらおもしろいんだよ。今度は、半音あげて入れてみた。また逆回しで聞いてみると、「カナカナカナカナ」ってまるで蜩の音になったの。そういうことをやって遊んでいたの。その次はテープレコーダーで多重録音。親父が持っていたレス・ポールのレコードを聴いて、これ1人でやっているんだけど、なんか大勢で録音しているように聴こえるの。奥さんのメリー・フォードと2人で録音したらしいんだけど、ものすごくたくさんの音が入っているんだね。それで、おれも多重録音をやってみようと思って。ブラザーズ・フォアが4人でコーラスしている「グリーンフィールズ」を1人でやったんだよ。まずワイヤーレコーダーに歌を入れて、次にワイヤーレコーダーに録音した歌を鳴らしながらテープレコーダーに歌を入れて。それをピンポンしながら繰り返すと、(音が)4重にも5重にもなって多重録音できたんだよ。はしりだよね。ただし、音が悪いの。録音するたびに段々と音が悪くなっていく。どうして(レコードは)あんなにきれいな音がするのかと後で知ったんだけど、1つのテープに8チャンネルも音が入るんだよな。そんなの知らないからさ、足して足して足して録音したから、そりゃ音が悪くなるのは当たり前だけどさ。その音源は、当時の文化放送で流れたんだ。

編集 テレビ番組で聴いたことがあります。とてもきれいな歌と英語でした。

加山 goneの発音がものすごく難しくてさ。近所にアメリカンスクールの生徒がいっぱいいたから教えてもらって、どんどん英語をしゃべるようになったの。ネイティブの発音で歌った「グリーンフィールズ」を聴いた人から、goneの発音が違うって投書がきてさ。日本語っぽく発音するgoneとは違うんだろうけどさ、原曲を聴いてくれたらわかるんだけどな。そんなことを

いちいちとやかく言うなよ、いいじゃないかって気持ちになったけどさ。

編集 多重録音されたものをご家族に聞かせたりしたのですか。

加山 まったく聞かせないよ。親は関係なかったね、自分でどんどん歩いていたから。

編集 茅ヶ崎で録っていたのですか。

加山 自宅にね、体操場があってね。そこにギターを持った水着姿のカントリー・クロップスが集まって演奏したことがあったから。ピアノも置いてあったし。多分その頃じゃないかな。大学3年生くらいだね。

編集 1950年代ですから、はやいですよね。

サーフボードもカヌーも独学で手作り

加山 なんでもはやい。だって、ハワイスタイルの波乗り第1号って、おれ新聞に出たんだから。

編集 サーフィンですね。

加山 そう。サーフボードも作ったんだから。無いんだから自分で作るしかないの。ハワイのボードが1本のウレタンで出来ているなんて知らないから、模型の飛行機を作るみたいに、1本ずつフレームを組んで芯材を通して、その上にべニヤ板をはって、サンドペーパーをかけては(塗料を)塗って、ペー

パーかけては塗ってを何十回も繰り返してボードを作った。そして、乗ったら乗れた。茅ヶ崎の波にぜったい乗れると思ってた。それまではね、風呂の蓋を身体に抱えて、今のボディボードみたいにして波に乗っていたから、キャッチウェーブはすごく上手いわけよ。乗ったら(ボードに)立てるわけ、楽なもんだよ。

編集 まったくの独学でボードを作ったのですか。

加山 自分で考えるより仕様がない。出来るもんだね、1週間くらいで1本作っちゃったからね。ペイント会社に勤めている女性が近所にいたの。その人がね、ラッカーの一斗缶を持ってきてくれたの。そんな材料、一般の人は手に入らないもの。近所の材木屋とも友達になっちゃってさ。駅の近くの材木屋に行って「この角材くれよ」「何するんだよ」「わけてくれよ」「4本くらいならあげるよ」「いやべニヤ板もほしいから買ってくよ」「いいよ」なんてさ。

編集 まず作ろうと思わないですし、作り方を探すものですが、加山さんはまずやってみる。

加山 勉強を教わっていた先生が商船大学の学生だったわけ。図面を引くのを見ていたからわかるわけだよ。立体図面をさ、横からと上からと正面からの三面図を書くわけ。それを自分で真似しながらやってみるうちにカヌーを設計して、その通りに作ったの。ペーパーをかけて、コールタールを塗ったら黒くて汚いの。もっと簡単にきれいにやりたいから、シーツを破いてラッカーの中に突っ込んで、それを船体に貼りつけて、その上から色を塗ったら多少皺になろうが関係ない。水が一滴も入ってこなければいいの。そのカヌーで烏帽子岩まで行ったときはうれしかったね。それまでは泳ぐと結構かかったけどさ、カヌーなら15分もかからない、あっという間に着いちゃうんだよ。こんなに近かったのかよって思うくらい。船底をぶち抜いて、水が漏れないようにプラスチックのガラスをはめて、走りながら海の中が見えるようにしたんだ。

編集 そのカヌーは今もありますか。

加山 のぞき窓があるカヌー、茅ヶ崎にあると思うよ(※2)。

編集 すべて一人で作って遊んでいたのですか。

加山 同い年のいとことだよ。慶応大学に編入してきたの。二人で作って遊んでた。あいつが前を担いで、おれが後ろを担いで(浜までカヌーを運んで)、二人乗りで烏帽子岩に行ってサザエを山ほどとった。「そんなにたくさんとってどうするの」ってお袋にいつも怒られていた。それで佃煮を作って親戚中に配った。サザエをとりすぎて船がひっくり返ったこともあったな。その後、いとこは八ヶ岳の方へ引っ越して行っちゃったけど。

2022年NHK紅白歌合戦の舞台を最後にステージから引退された加山さん。2023年も多くのテレビ番組へ出演され、各メディアから取材を受け、料理書を上梓するなど精力的に活動されました。現在も絵を描き、ジムに通う日々だという。

ザ・ワイルドワンズに新曲を提供

編集 加瀬邦彦さんもそういった遊びに参加されていたのですか。

加山 加瀬も茅ヶ崎に住んでいたからしょっちゅう遊びにきていたけど、おれはあまり関心を持たなかったよ。おれの妹に気があったからさ。そのうちあいつがバンドを作って、名前を付けてくださいと言われてね。「おまえら生まれっぱなしだから、『ワイルドワンズ』だな」って名付けた。

編集 どこでその名前を思いついたのですか。

加山 その場で思いついたんだよ。思い立ったら吉日だな、なんでも。

編集 加瀬さんが亡くなられてからは新曲リリースのなかったザ・ワイルドワンズに、新曲「はじまりの渚」を提供(“時を超えて奏でられた『はじまりの渚”』リンク)されました。

加山 加瀬が癌で寝こんでいる時に、鳥塚(しげき)が泣いていたんだよ。おかしいなと思ってさ、それだけ心配していたんだね。病状もよく知っていたんだね。おれは加瀬が癌だなんて口にしたくない、考えたくもなかったから病室には入らなかった。あの頃は銀座のケネディハウスに毎週出ていてさ。

編集 まだまだ、がんばってほしいです。

加山 ほんとそうだよな。

編集 「君といつまでも」は「オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート」が元になっていると書かれています。「ふたりを 夕やみが〜♪」と「Grabyour coat and getyour hat♪」のような曲はほかにありますか。

加山 ほかにあったかな。これまで録音したのが539曲、たくさん作ったからね。

フランク・シナトラとエルビス・プレスリーと尾崎紀世彦

編集 ラストショーの最後の曲「愛する時は今」に、フランク・シナトラの「My Way」を感じます。

加山 雰囲気的にはね。シナトラの曲みたく思ってくれたらいいなと思いながら歌う。そう思ってくれたのは間違いないよ。

編集 一番好きなのはエルビス・プレスリーですか。楽屋にも訪問していますよね。

加山 別れ際にさ、「日本へ来たいと思わないか」って聞いたらさ、「おれ行ってみたいよ」って言ったんだよ。「なかなか行かせてもらえない」って。だれの所為だか知らないけどさ。おれが質問してるのに、全部かみさんの方を見て答えるからさ、かみさんは喜んじゃって。最後はおでこにチュウしやがったよ。

編集 エルビスとシナトラは特別な存在ですよね。

加山 シナトラの場合はさ、日本で一番よく似ているのは加山雄三だって言われて、言われるだけでうれしいよ。外国の評論家がおれの映像を観ながら、涙ぐんで褒めてくれたんだよ。You Tubeに(その映像が)あがっているらしいよ。

編集 「ナイト・クラブの加山雄三」というアルバムの中で、尾崎紀世彦さんの「また逢う日まで」を歌われています。曲紹介の時に加山さんは、同じ茅ヶ崎生まれのサーフィン仲間だから彼も応援してやってくれと言われました。尾崎さんとサーフィンした記憶はありますか。

加山 ないけど、(サーフィンを)やっていたという話は聞いていたから。「また逢う日まで」は(サビを口ずさみながら)すげえいい曲だと思ったよ。個人的に交流するチャンスはなかった。NHKの音楽番組「加山雄三ショー」に出てもらったことはあったな。

編集 本日はたのしい時間をありがとうございました。最後に、茅ヶ崎の人に向けて色紙にメッセージをお願いします。

編集部の用意した筆記具のなかから迷わず筆を選ぶ加山さん。ほんの少しの試し書きを終えると、「大丈夫」と言いながら色紙にむかって達筆を披露された。

加山雄三(かやま・ゆうぞう)

1937年4月11日生まれ。父は俳優の上原謙、母は女優で美容体操家の小桜葉子。神奈川県茅ヶ崎市で育ち、慶應義塾高等学校から慶應義塾大学法学部へ進み、卒業後の1960年春に東宝へ入社。同年、映画『男対男』で俳優デビュー。1961年レコード「大学の若大将/夜の太陽」で歌手デビュー。NHK『紅白歌合戦』出場17回。代表曲多数。後のフォークソングやニューミュージック全盛時代に先立つ、日本におけるシンガーソングライターの草分け的存在であり、また日本ではじめて多重録音を手がけた歌手でもある。作曲家、ギタリスト、ウクレレ奏者、ピアニスト、画家としても活躍。加山雄三オフィシャルサイト/リンク

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