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チガサキゴトよ、チーガ

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「本の帯」について考えた

 『茅ヶ崎市立図書館の本に帯を』。先日朝日新聞で目にした、5段1/3ほどの大きさの記事。「読書推進のために図書館の蔵書に帯をつけよう」とのアイディアから生まれた提案が、市議会で賛成多数で採択されたという内容だが、発案したのはなんと鶴嶺高校の2年生。「地域の課題を調べて解決策を考える」という授業で案を出したところ、コンテストを経て代表に選ばれ、教育委員会で審査される運びとなったという。

 長年出版に関わってきた身としては、地元の若者からこういうアイディアが生まれるのは嬉しいし誇らしい。若者の本離れみたいなことがよく言われるが、そんなことないじゃないかと安心させてもくれる。

 もっとも提案者である高校生は、普段あまり図書館は利用せず、本屋で買うことが多いのだそう。なぜなら本屋の本には帯がついていて、帯には思わず手に取ってみたくなるようなキャッチコピーが書かれているから。「なるほど、自分は帯を参考にして本を選んでいるのか」と気づいた高校生は、「それなら図書館の本にも帯をつけたら。そうすれば本を借りる人が増えるんじゃないか」と思いついたというわけである。

 この着眼点には、正直頭が下がった。帯の持つ意義を改めて考えさせられた。何しろ我々からすると、帯は「販促のために新刊本につけるもの」であり、「図書館の本につけるもの」ではない。端的に言えば、帯は「本の魅力を伝えるため」というより「一冊でも多く買ってもらうため」のものというのが業界の一般通念。でも本当にそれでいいのか、帯ってそういうものか?と、はたと考えさせられたのである。

 もちろん、帯は本のデザインの一部として扱われることも多い。カバーとの組み合わせや用紙の選び方などによって、本を立体的に演出する効果もある。文学作品などでは、心惹かれる美しいフレーズやひねりのきいたユニークな言葉で、本の魅力を見事伝えているものがたくさんあるのも事実だ。

 しかし実用書などはどうしても「魅力」より「売りたい」が先に来る。「100万部超」とか「何万人が涙した」といった数字を上げるなど、センセーショナルな言葉を並べることにこだわってしまう。ヒット作をと思うあまり、必要以上に肩に力が入ってしまうのだ。

 それに気づいたのは、まだ若手編集者だった頃。出来立ての新刊を裏表ひっくり返しながら、カバーや帯をまじまじと眺めていたときだった。

(アレ? なんだか表紙より裏表紙の帯の言葉のほうがスッと心に入ってくる。こっちを表に使えばよかった。なぜ気づかなかったんだろう)

 帯は裏表紙側にも言葉が書かれているのだが、表の帯文は気負いすぎるあまり空回りしていて、むしろ気軽な気持ちで書いた裏のほうに魅力的な言葉が並んだのである。

 同僚に話すと、大きく肯いていた。全く同じ経験をしたことがあると言っていた。「売らんかな」に囚われると、どこかで聞いたことがあるトレンディな言葉ばかりが頭をよぎり、自己の内側から出る素直な言葉が遮られてしまうのかもしれない。

 帯は購入直後、捨てられてしまうことも多い。編集者が寝ずに考えた言葉もデザイナーが苦心して考案したデザインも、人々の手に渡るや不要のものとなる。少し寂しい気もするけれど、バトンの役目を果たしたとすれば、もうそれで十分なのだとそう思うようにしている。

参考:朝日新聞/6月12日/朝刊/神奈川版『茅ヶ崎市立図書館の本に帯を』


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